後継ぎがいなかった後桃園天皇、江戸時代の天皇家の様子とは?

第118代後桃園天皇は第116代桃園天皇の子で、叔母に当たる後桜町天皇の譲位を受けて即位しました。

ここでは江戸時代後期に即位した後桃園天皇と、江戸時代の天皇家と幕府との関係についてご紹介します。

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後桃園天皇の即位と譲位

後桃園天皇は12歳で皇位を受け継ぎ、先帝であり叔母である後桜町天皇の下で在位期間を過ごしました。

後桃園天皇は幼少のころから体が弱く、22歳の若さで亡くなってしまいます。

在位中に、朝廷の官人による経理に不正が発覚し、幕府による処分が行われた安永の御所騒動がなどが起こりましたが、税い期間が短かったこともあり、これといった事績は伝わっていません。

後継ぎの皇子もいないまま在位中に崩御したことで、後継を巡って混乱が生じ、天皇崩御の発表も10日遅らせたと伝えられています。

なので、後桃園天皇は崩御の後も10日間在位していたことになっています。

後桃園天皇には弟がいましたが、その人物は後桃園天皇より先に亡くなっており、直系は後桃園天皇が亡くなった年に生まれた皇女一人だけでした。

そこで、後桜町上皇の祖父である第114代中御門天皇の異母弟に、皇女を嫁がせ、第119代光格天皇として即位させることになりました。

この光格天皇が、朝廷復古のために尽力し、のちの明治維新に繋がっていくことになります。

江戸時代の朝廷と幕府の関係について

日本史の教科書では、室町時代以降明治維新までの天皇家についての記述は多くありません。

室町時代から江戸時代の間にも様々な性格の天皇が即位され、歴史の流れにも影響を及ぼしていましたし、歴史に残る大きな事変には天皇の存在が欠かせませんでした。

室町時代から江戸時代までの朝廷は、幕府(武士)にとって国を統治する上で必要な後ろ盾のような存在だったと考えられます。

徳川家康も天皇から征夷大将軍の称号を与えられたことによって、江戸幕府は成立しました。

官位などの任命権を持っていた天皇家はある種崇高な存在であり、武士と共存共栄のような関係が成立していたのではないかと考えられます。

戦国時代前期までの天皇家は、歴史上もっとも貧困だったと考えられますが、織田信長上洛、そして豊臣秀吉は天皇家を最大限に崇拝、そしてその威光を利用したために天皇家の権威は復活しました。

しかし徳川家康によって江戸幕府が開かれてからは、公家諸法度という取り決めの元に、幕府による圧力の下で何事も幕府の許可を得ないと決められないという不自由な状況が続きました。

江戸時代には概ね幕府の監視下に置かれていた朝廷でしたが、江戸時代中期から武士の一般教養として「朱子学」が広まりました。

それによって徐々に、全国的に尊王的な考え方が普及していき、明治維新へとつながっていったと思われます。

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