第121代孝明天皇は、幕末の政局に大きく関わった天皇とされています。
ここではその孝明天皇と、京都守護職であり会津藩主でもあった松平容保についてご紹介します。
黒船来航と孝明天皇
父であり先帝の仁孝天皇の第4皇子として誕生した孝明天皇は、祖父である光格天皇、そして父である仁孝天皇の意思を継いで朝廷の権威復活に尽力しました。
1853年黒船が来航し、幕府は開国という結論を出しましたが、孝明天皇は攘夷派、開国に理解を示さず幕府からの開国の申請を断固拒否していました。
当時の日本は幕府の権威が徐々に衰退して、全国的に尊王攘夷ムードが高まっていました。
幕末の動乱の中で、二世紀にわたって政治に関与できなかった皇室と朝廷の存在がとても大きくなってきたのです。
孝明天皇は攘夷派ではありましたが、あくまで倒幕ではなく、幕府との協調路線を目指し尽力しました。
しかし、過激になっていく尊王攘夷派は「天皇の意思で行動している」と、孝明天皇の意思とは反対の行動に走ってしまいます。
この時代の主役は長州藩などの幕末の志士達になってしまいますが、実は朝廷の存在が大きな鍵となっていたことはあまり知られていません。
孝明天皇から信頼された松平容保
「禁門の変」の後長州藩は失墜し、日本全土を巻き込んだ尊王攘夷運動はますます混沌としていきます。
そんな最中孝明天皇が信頼を寄せたのが、将軍後見職の一橋慶喜、桑名藩主・京都所司代の松平定敬、そして会津藩主・京都守護職の松平容保でした。
その中で松平容保は特に天皇への忠誠心が篤く、政治的な駆け引きにはあまり長けていなかったと人物と伝えられています。
そして孝明天皇も松平容保に特に信頼を置き、周りからも贔屓されてるのではないかという声も聞こえていました。
孝明天皇の意思で、松平容保は長州への処分に取り組むことになったのですが、世間ではこれを「会津藩対長州藩の私的な恨み」とみなされ、この征伐が中途半端に終わってしまったことも幕府の権威に傷をつけました。
そしてこれが、孝明天皇から指示を受けなかった薩摩と、朝敵である長州を結び付ける結果となり、薩長同盟が結成されるきっかけとなりました。
松平容保は実直な性格だったため、朝廷への幕府のお目付け役である京都守護職に就任しましたが、京都において孝明天皇の信頼を一身に集め幕府の説得に当たらされた、という構図になったと考えられます。
京都守護職時代の松平容保は、京都の守護のため浪士によって結成された新選組を配下に置きます。
そしてその働きは、会津藩主という肩書とは裏腹なものとなってしまうのです。
そして大政奉還以後に起こった、白虎隊で有名な会津戦争へと発展していき、松平容保は多くの悲劇の中で降伏、その後蟄居を命じられました。
波乱万丈の人生を歩んだ松平容保は、晩年は歌道を楽しむなど穏やかな余生を過ごしました。
松平容保は東京の自宅で59年の生涯を閉じましたが、孝明天皇からいただいた手紙や和歌を竹筒に納めて首にかけ、最期まで大事に持っていたと伝えられています。
