35人の子供がいた!霊元天皇の知られざる逸話とは?

第112代霊元天皇は、江戸幕府の歴史に隠れてあまり名が知られていない天皇ですが、実は様々な逸話の残る天皇です。

ここではその霊元天皇の在位時代の背景や、逸話についてご紹介します。

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奔放な性格だった霊元天皇

霊元天皇が即位したのは9歳、その頃は父である後水尾法皇も若く精力的に院政を行っていましたが、霊元天皇26歳で後水尾法皇が崩御した後は父の政治手腕を見習って自ら親政を行ったとされています。

霊元天皇の父・後水尾天皇、そして兄である第110代後光明天皇は、ともに幕府に対してあまり良い感情を持っていませんでした。

幕府の血統を天皇家に残したくなかった後水尾天皇、そして幕府に対してあくまで反抗的な態度をとった後光明天皇でしたが、霊元天皇もその方針を踏襲して親政を行いました。

霊元天皇には35人の子供がいたとされていますが、驚くことに、実は父である後水尾天皇にも35人の子供がいたのです。

霊元天皇は奔放な性格で、中宮や典侍(武家でいうところの側室)以外にも後宮などの女性との間にたくさんの子をもうけました。

この時代の朝廷も決して裕福ではありませんでしたから、公家の中にはこの事を諫める者もいたのですが、霊元天皇はその者を即座にクビにしてしまったと伝えられています。

皇室再興を目指した霊元天皇と小倉事件

霊元天皇は父の後水尾天皇の路線を踏襲し、幕府と距離をおいて皇室の再興と独自の政策を展開しました。

親幕派と呼ばれる幕府寄りの公卿や公家を、いくら名門であっても徹底的に冷遇し、皇室の威厳を取り戻すために力になってくれる公家を優遇しました。

また霊元天皇は、後水尾法皇の遺命によって次の天皇に内定していた第一皇子の一宮を強引に出家させてしまいます。

第一皇子を出家させた理由に、霊元天皇は母方の親戚が出しゃばってくるのを防ぐためなどの理由が述べられたとされていますが、他にも様々な説があり、定かではないとされています。

そして、それに反対する一宮の外祖父である小倉実起まで佐渡へ流刑にしてしまいました、これを小倉事件といいます。

その一連の処分には、幕府への相談がまったくなかったことで、時の将軍である徳川家綱は「せめて後水尾法皇や、東福門院様にご相談を」と言いましたが、耳を貸さなかったとされています。

また、小倉事件における霊元天皇への措置に対して批判的であった人物を無視した人事を行うなど強硬的に政務を行いましたが、5代将軍綱吉は、朝廷と揉めるのは後々良くないと判断し、全て許可したと伝えられています。

譲位後の霊元天皇

霊元上皇は第113代東山天皇に譲位した後も、東山天皇が親政を行うことができる歳になるまで院政を行いました。

霊元上皇は東山天皇への譲位の際に、長年中断していた大嘗祭を行い、禁中並公家諸法度で朝廷のを統制していた幕府の感情を刺激しました。

また、長い間途絶えていた皇太子の称号を復活させたり、加茂祭や石清水八幡宮の放生会などを再開し、途絶えていた朝廷儀式を復活させることに尽力しました。

そして78歳で崩御されるまで、歌道に精進したと伝えられています。

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