生涯独身だった最後の女帝、後桜町天皇が現代の皇室に与えた影響とは?

第117代後桜町天皇は、明正天皇以来119年ぶりの女帝です。

ここではその後桜町天皇と、現代の皇室に与えた影響についてご紹介します。

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中継ぎだった後桜町天皇の即位の経緯

先帝の桃園天皇が22歳で急逝し、桃園天皇の皇子である英仁親王(のちの後桃園天皇)がわずか5歳だったことを受けて、桃園天皇の姉である後桜町天皇が即位することになりました。

天皇が5歳で即位するということは特別異例ではありませんでしたが、このころは桃園天皇の時代に起こった宝暦事件で、幕府との関係が微妙な時期でした。

桃園天皇が幼いころから尊王論を学んだことで、幕府との関係がぎくしゃくしてしまった前例があるので、それを避ける意味もあったと考えられます。

他にも、後桜町天皇の即位は異例なことだらけでした。

江戸時代初期に出された禁中並公家諸法度によると、朝廷で物事を決定する時は幕府の許可が必要でしたので、この異例の即位に関しては事後報告となりました。

また後桜町天皇の即位に関する行事も、女帝の礼服や束帯など参考資料が乏しかったので、明正天皇の礼を調査したりと手探り状態だったと伝えられています。

後桜町天皇は9年間の在位中一度しか新嘗祭に出席しなかったとされていますが、119年ぶりの女帝とあって、女帝の場合のノウハウが確立されていなかったことが原因だと考えられます。

天皇を退位されてからの後桜町天皇

後桜町天皇は9年間の天皇としての時期を終え、第118代後桃園天皇に譲位し後桜町上皇となりましたが、わずか9年後に後桃園天皇が22歳で亡くなってしまいました。

しかも後桃園天皇には後継ぎとなる皇子(男子)がおらず、子供は亡くなった年に生まれた皇女1人だけでした。

そこで、桃園上皇・後桜町上皇の祖父にあたる第114代中御門天皇の異母弟、閑院宮直仁親王の孫を養子にして即位させることになりました。

閑院宮直仁親王の孫はその後、9歳で即位、第119代光格天皇となりました。

後桜町上皇は、早逝した後桃園天皇に続き光格天皇の上皇として、二人の天皇を補佐することになりました。

後桜町上皇は頻繁に内裏に行幸し光格天皇とふれあい、君主としての教育をほどこしたり、その心得や道をやさしく説いたと伝えられています。

また後桜町上皇は書や歌にも造詣が深く、光格天皇にそういった指導もされてました。

国母と呼ばれ、現代の皇室に影響を及ぼした後桜町上皇

光格天皇が20歳の時に「自分の父は宮家の人間であり、摂関家よりも格下なのに納得がいかない」として松平定信と対立した「尊号一件」という出来事がありました。

一触即発になりそうな雰囲気の中、後桜町天皇は「称号や身分を高くするより、あなたの御代を長く続けることが御父上に対する孝行ですよ」と優しく諭したと伝えられています。

信頼している後桜町天皇の言葉に、光格天皇も黙って身を引いたとされています。

幕府の後桜町天皇に対する信頼度も高かったようで、後桜町上皇には様々な心遣いがなされたとされています。

その後、後桜町天皇は74歳で崩御するまでは、大きな事件も起こらずに穏やかに過ごされました。

後桜町天皇の教育によって成長した光格天皇は、その後明治維新に繋がる朝廷復権の基礎を作りました。

そういった意味で、後桜町天皇は「国母」と呼ばれるようになったとされ、後桜町天皇の教えは、光格天皇の血筋を通して現代の皇室に伝えられています。

女帝のならいとして自らの血を残さなかった後桜町天皇の「お心」はそのまま、現在の皇室の方向性を決めたとみることができます。

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