後奈良天皇の写経活動について、皇太子さまが述べられたお言葉とは?

第105代後奈良天皇は、応仁の乱の最中に先帝の崩御に伴って践祚した天皇です。

ここでは後奈良天皇と、後奈良天皇の写経について皇太子さまが述べられたお言葉についてご紹介します。

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後奈良天皇の「践祚」と「即位」

後奈良天皇は、1526年に後柏原天皇の崩御に伴い践祚し、10年後の1535年に即位式を行い即位した、となっています。

「践祚」は天皇の位を受け継ぐことで、「即位」は皇位継承したことを儀式を行うことによって内外に明かすことをいいます。

当時は応仁の乱によって朝廷内の財政は窮乏しており、式を行う予算もなかったために、践祚から即位まで10年もかかりました。

その間後奈良天皇は過去の天皇の直筆の書などを売って収入を得て、質素な生活をしていたと伝えられています。

また、官僚による献金などを許さなかった清廉な人柄であったともいわれています。

後奈良天皇の時代、1539年に日本各地が大洪水に見舞われ大凶作になりました。

そのためその翌年には飢餓と疫病が蔓延し、餓死する者や病死する者が出てしまい、後奈良天皇は非常に心を痛めていました(天文の大飢饉)。

後奈良天皇による写経と願い

応仁の乱の影響は、その後長い間続き、飢饉による農民一揆、宗教勢力の蜂起、各地の武家同氏の争いなどで京の街は荒れ、市街は遺体で埋まったとされています。

後奈良天皇は、疾病終息を祈願して自ら般若心経を写経し、それを25カ所の一宮に奉納して災厄の終息を祈願したとされています。

後奈良天皇は飢餓や疾病で亡くなった民衆に心を痛めた、慈悲深い天皇でした。

般若心経を写経して奉納した際には、「自分の力のなさのために民衆を救えない歯がゆさに心が痛む。せめてこの祈りが疾病の妙薬になれば」という文言を付け加えていたと伝えられています。

皇太子さまが後奈良天皇について語られたこと

2017年、皇太子さまがご自身のお誕生日に出されたコメントの中に、後奈良天皇のエピソードがありました。

紹介された箇所の概要とは、

「普段の公務で国民の皆さんとお話しする機会が持てることの大切さを実感しており、都を離れることができなかった過去の天皇も同じ思いでいらっしゃったようです。

愛知県西尾市の岩瀬文庫で、後奈良天皇が飢饉や疫病に心を痛めて写経されたものの一部を拝見する機会がありました。
そのような天皇のお心を規範とします。」

皇太子殿下は学生時代に、中世史を専攻されていました。

後奈良天皇だけではなく過去の天皇についての研究の中、国民に寄り添って政務を行った数々の天皇に心を動かされ、このようなコメントを出されたのではないかと思われます。

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