第115代桜町天皇は、第114代中御門天皇の第一皇子として生まれ、中御門天皇の譲位を受けて即位しました。
ここでは桜町天皇と、桜町天皇が聖徳太子の再来といわれる所以についてご紹介します。
桜町天皇の即位の経緯と時代背景
桜町天皇は、1720年に中御門天皇と近衛尚子との間に第一皇子として生まれ、16歳で先帝である中御門天皇からの譲位によって即位しました。
即位した頃は、朝遅く起き、昼近くに朝食を食べ、そして夜遅くまで起きていたと伝えられており、それを右大臣である一条兼香が嘆いたとされています。
しかし、その後関白となった一条兼香の補佐によって、朝廷の復興を目指し、天皇の権威を向上するために奮闘しました。
桜町天皇が在位していた時代は、徳川8代将軍徳川吉宗・9代将軍家重の時代になります。
この時代には、暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗によって、大岡越前守忠相が寺社奉行になりました。
大岡越前守忠相は、ドラマのような名裁きは生涯のうち数えるほどでしたが、実際に真実を公平に追求し、寛大な裁きをするように心がけていた名奉行だったと伝えられています。
ちなみに町奉行を務めた19年間で手がけた案件は25万9千件とされていますが、この数字にはかなりの誇張が含まれているのではないかと考えられます。
桜町天皇が聖徳太子の再来といわれる理由
桜町天皇の在位時代は、幕府と良好な関係にあったとされ、桜町天皇は幕府の将軍徳川吉宗の助力により、朝廷の儀式の復古に力を入れました。
桜町天皇は大嘗祭の再復活や、新嘗祭・奉幣使などの儀礼の復活にも力を注ぎました。
新嘗祭というのは宮中祭祀の一つで収穫祭に当たるもので、天皇が五穀豊穣を祈り自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する祭祀です。
そして大嘗祭は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭のことをさします。
また、宇佐宮などの奉幣使派遣を復興しました。
桜町天皇は、生まれが元旦でそしてその時に火事があったことや、実績も立派であったという共通点から、聖徳太子の再来と伝えられています。
また歴史家としても知られる公家の柳原紀光も桜町天皇を「延喜、天暦以来の聖代」と評しました。
譲位後の桜町天皇
桃園天皇に譲位し、上皇となった桜町天皇はその後も積極的に学問の振興や政治を行いました。
桜町天皇が27歳という若さで桃園天皇に譲位したのは、上皇となって幕府の干渉を受けずに院政を行いたいという思いがあったと考えられています。
和歌に秀で、聖徳太子の再来ともいわれた桜町天皇は、譲位した3年後、神経障害(脚気)で崩御し、残念ながら院政を充実させることは叶いませんでした。