江戸時代初期に即位した後西天皇の功績とは?

第111代後西天皇は、先帝である第110代後光明天皇が早逝したために中継ぎとして相違した天皇です。

後光明天皇に皇子がいなかったため後継者問題が起こった中に即位した後西天皇、ここでは後西天皇と時代背景や功績についてご紹介します。

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後西天皇の即位の経緯

先代の後光明天皇は生前、弟である識仁親王(後の霊元天皇)を後継者にしようと思っていました。

しかし後光明天皇崩御の際、識仁親王はまだ生後4ヶ月でしたし、他の兄弟も全員出家していて皇位継承はできませんでした。

そこで、識仁親王が成長するまで後西天皇が皇位を継ぐことになったのです。

この時代は、鎖国制度や参勤交代など江戸幕府の基盤がやっと固まってきた時期に当たります。

治世としては4代将軍徳川家綱の時代、後西天皇はその間の8年ほど皇位についていました。

後西天皇は、第108代後水尾天皇の子で、仙台藩の第3代藩主で伊達政宗の孫である伊達綱宗とは従兄同士にあたります。

芝居などで放蕩三昧・豪遊大名として描かれている伊達綱宗ですが、自分が後西天皇と従兄同士で天皇家と密接な関係ということを、幕府から警戒されないようにわざとそういう行動ととったのではないかという説もあります。

伊達綱宗は隠居後は風流三昧に生きて、書画や和歌・蒔絵など素晴らしい作品を多く残したことからも、本当は優秀な人物だったのではないかと考えられます。

後西天皇の人物像や実績とは

後西天皇は即位した直後、大変字が汚かったと伝えられています。

天皇に書の指導をしていた白河雅喬に「こんなに下手な字は末代までの恥」と怒られ、さらにその書かれた紙を火鉢で燃やされてしまいました。

ところが数年後、再び天皇が書いた書を見た白河雅喬は、その筆運びの美しさに驚嘆、「自分のような卑しい身分の者の暴言を忘れないで、ここまで成長されたとは」と感激して涙を流したという逸話が残っています。

このような逸話から、後西天皇には特筆すべき実績は少ないものの、努力家で素直で、穏やかな性格の方だったと考えられます。

また、学問に打ち込み、「水日集」などの著作が多数残されており、和歌の才能もあったと伝えられています。

後西天応の即位期間に起こった自然災害や火事

後西天皇の在位中には、明暦の大火(振袖火事)など、様々な災害が起こってしまいます。

明暦の大火の他にも、伊勢神宮や大阪城、そして内裏の火事が続き、地方では大洪水や地震が発生しました。

現代では考えられないことですが、これらの天変地異は天皇の不徳のせいであるとされ、幕府や父・後水尾上皇からも退位の要請を受けてしまいます。

また、外様大名である伊達綱宗と従兄同士であるという血筋も問題視されて早い譲位を促されたという説や、自分に徳がないとして自発的に譲位を決意したなど、様々な説が伝えられています。

そして後西天皇は、当時10歳の識仁親王に皇位を譲り、その後47歳で崩御しました。

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