第120代仁孝天皇は、父である光格天皇の譲位を受けて即位した天皇です。
ここでは学問に熱心だった仁孝天皇と功績、そして学習院との関係についてご紹介します。
光格天皇の意思を継いだ仁孝天皇
先帝である光格天皇は、朝廷の儀式の復活に力を注ぎ、しばらくの間中絶されていた諡号を復活させた天皇です。
また公家諸法度によって、幕府の許可なしに何も決めることができなかった朝廷の権威を取り戻すことにも熱心でした。
その光格天皇からの譲位を受けて即位した仁孝天皇も、その方針を踏襲して旧来の朝廷の儀式に力を注ぎました。
仁孝天皇の誕生の際に、神功皇后が応神天皇を産んだとされる筑前の宇佐八幡宮に祈願の勅使が出されたという逸話が残っています。
この時代は、天皇家では幼くして亡くなってしまう皇子が多く、また即位しても20代で崩御してしまうことが多かったために、神功皇后にあやかって勅使を出したと伝えられています。
ちなみに仁孝天皇はの没年は45歳でした。
また、仁孝天皇は光格上皇の意を受け、皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、現・学校法人学習院の前身を作りました。
仁孝天皇と学習所
仁孝天皇は、ことのほか学問に熱を入れ、臣下にも学問を奨励しました。
また皇族や公家たちの子弟の教育のために、武家伝奏である徳大寺実堅に幕府との折衝を命じ、かっての開明門院御殿に、学習所の建設を進めました。
「武家伝奏(ぶけてんそう)」とは、室町時代から江戸時代にかけて朝廷に置かれた職名の一つです。
この職は公卿が任じられて、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を持ち、朝廷と武家との橋渡し的な役割を果たしていました。
残念なことに仁孝天皇は、幕府の了承を受けて構想が現実のものとなった矢先に、心血を注いだ学習所の完成を見ることなく崩御してしまいました。
江戸幕府前期には公家諸法度によって、幕府の許可なしに朝廷の意向を通すことは難しかったのですが、仁孝天皇の時代には幕府や民衆にとって朝廷という存在が重要だという機運が高まってきていたのです。
学習院の前身
仁孝天皇の崩御の翌年、天皇の遺志により御所の外郭問の一つである建春門外に、公家の講学の場所として学習所が設立されました。
その学問所は、仁孝天皇から皇位を継承した第121代孝明天皇から賜った勅願によって、「学習院」(京都学習院)と命名されました。
その学習院は明治10年に神田錦町にて開業式が挙行され、明治17年には宮内庁所轄の官立学校となりました。
以後華族女学校なども開設されますが、1947年以降官立ではなく私立学校となり、現在では幼稚園・初等科・中等科・高等科そして学習院大学となっています。
現代では皇族の方々もご自分たちが選んだ学校へ通われており、華族の方々も学習院にはこだわらなくなってきましたが、第二次大戦後までは「皇族や華族は学習院」とされていました。