後水尾天皇は春日局との確執で譲位?!その時代背景とは?

江戸幕府が朝廷に対して圧力を増して時代に、第108代後水尾天皇は即位しました。

ここでは戦国時代最後の天皇となった後水尾天皇と、春日局も絡んだ前代未聞の譲位劇についてご紹介します。

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後水尾天皇の即位と徳川家の思惑

後水尾天皇は、徳川家康の後押しで即位した経緯もあって、徳川秀忠の娘の和子との結婚も決まり、当初は徳川家と友好な関係でした。

和子の母親は浅井長政とお市の方の娘で、淀君の妹である於江与ですので、家柄も申し分なく莫大な持参金もついてくることで朝廷側も歓迎ムードでした。

そして徳川家も、天皇の外戚という地位を得ることができるのでお互いの利害関係が一致した婚姻でした。

ところが大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してしまうと、徳川幕府は今までの態度を変えて、天皇家への圧迫を強めていくのです。

禁中並公家諸法度を発布して、政治や元号の制定その他朝廷に関することを全て幕府が統制し、何をするにも徳川幕府の許可が必要になってしまいました。

豊臣政権の時代には秀吉が天皇家を尊重したこともあり、豊臣家に恩義を感じ好意を持っていた後水尾天皇は、この禁中並公家諸法度には我慢がなりませんでした。

そして、後水尾天皇は和子との結婚を引き伸ばしにかかるのです。

その間、後水尾天皇は宮中の女官と通じて皇子が誕生、さらに翌年には女児も誕生しました。

これを知った徳川秀忠は激怒、天皇の側近を次々に処分すると、今度は天皇が激怒、退位の意向まで示しましたが、穏健派のとりなしによってその後やっと和子との婚姻が実現します。

後水尾天皇と徳川秀忠との確執

和子入内の後、幕府の朝廷への介入や専横はますます過激になっていきます。

「女御様御付」という宮中職を新たに設けて、宮中内に徳川家の武士たちが大勢出入りする警察区域が設定されました。

これは皇室の歴史上初めての事例で、後水尾天皇をはじめ皇室の人々の不満は募りました。

その後天皇と和子の間に皇女が誕生するのですが、このころに幕府が天皇に渡す大内御料が極端に少なかったことにも後水尾天皇は不満を持っていました。

その後和子は待望の男子を出産し、ようやく跡取り誕生となり幕府も後水尾天皇も安心するのですが、すぐに「紫衣事件」が起こってしまいます。

紫衣事件とは、天皇が高僧だけに許可した紫色の法衣を、公家諸法度の元に幕府が取り消した事件です、これが後水尾天皇の怒りを買います。

和子の産んだ男児はわずか2歳で夭折してしまい、後水尾天皇は和子の産んだ皇女・女一宮に天皇の座を譲位し、上皇になる事を決意しました。

それを撤回させようと、秀忠の息子である家光の乳母、大奥を取り仕切る春日局を上洛させ天皇に拝謁させるのですが、朝廷からみれば無位無官の下賤の老女をよこしたに過ぎないことから、後水尾天皇の怒りの火に油を注ぐ結果となってしまいました。

このことで怒り心頭となった後水尾天皇は、幕府に何の断りも入れずに退位を決行、そして後継者も勝手に決めるという、前代未聞の譲位劇が繰り広げられたのです。

様々な経緯で天皇家と徳川幕府の間に溝ができてはいましたが、最終的には身分不相応な春日局が出しゃばったことで、天皇家と徳川幕府の仲が決裂してしまったと考えられます。

そして徳川の血を引く女帝・明正天皇が誕生するのですが、女帝であるがゆえ生涯独身で、結果的には徳川家の血を引く天皇は明正天皇だけで終わってしまったのです。

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