第110代後光明天皇は、第108代後水尾天皇の第四皇子として生まれ、姉である第109代明正天皇の譲位を受けて即位しました。
ここでは、江戸時代、武家を相手に一歩も引かない剛毅な逸話が残る、後光明天皇についてご紹介します。
姉である明正天皇が中継ぎの天皇として即位し、その後を継いで後光明天皇は10歳で元服そして天皇に即位しました。
後光明天皇の在位期間の江戸時代は、徳川家光から家綱に将軍が代わった時代にあたります。
二代将軍・徳川秀忠の娘である徳川和子(東福門院)が養母であることから、徳川氏は形式的に天皇の外戚としての地位を守ることができました。
後光明天皇は武芸を好み直情的な性格で、反幕府的な態度をとっていたと伝えられていますが、その反面幼少のころから学問を好み、特に漢学や儒学を尊重したともいわれています。
父・後水尾上皇は漢学ばかり学んでいた後光明天皇に、和歌にも力を入れるように諭しました。
しかし後光明天皇は、朝廷が衰退した原因が「和歌」と「源氏物語」にあると考えており、和歌を学ぶことはほとんどなかったと伝えられています。
特に後光明天皇は源氏物語を「淫乱の書」と決めつけ毛嫌いし、その後も一切読みませんでした。
しかし、後水尾上皇から詠歌を促されると、後光明天皇は御供の来る間に10首の歌をたちまち詠みあげ、これを見た後水尾上皇は大変驚き感じ入ったと伝えられています。
御光明天皇の、剛毅な性格にまつわる逸話とは
後光明天皇はご自身の性格から、自ら武芸を好み剣術を学んでいました。
それに対して京都所司代の板倉茂宗が、
「関東(幕府のことを指す)へ伝えられたらよろしくない。もし剣術をおやめにならないのなら、自分が腹を切らなければなりません」
と脅迫を含みつつ諫言しました。
しかし後光明天皇は意に介さないどころか、
「未だに武士の切腹をこの目で見たことがない、南殿(紫宸殿・京都御所の儀式を行う場所)に壇を築いて切腹せよ」と言ったと伝えられています。
まさか天皇から「やれるものならやってみろ」というような言葉が返ってくるとは思わなかった重宗は閉口し、引き下がったとされています。
また、頭の回転の速さととんちが見える逸話も残っています。
後水尾上皇が病気になったという知らせが来たところ、幕府から「天皇がお出かけになる時は許可が必要」と横槍が入りました。
そこで後光明天皇は、自分が暮らす御所から院御所(後水尾上皇の住まい)まで急遽廊下を造らせ、「同じ敷地内を移動するだけなのだから」と、堂々と廊下を渡ってお見舞いに行ったという逸話が残っています。
仏教嫌いだった後光明天皇
後光明天皇は、仏教を「無用の学」と言うほどの仏教嫌いでした。
開けることが禁じられている三種の神器が収められている唐櫃を開け、鏡の他に仏舎利があるのを見つけ、「怪しい仏舎利め!」と庭に討ち捨てさせたという逸話も伝えられています。
このような様々な剛毅なエピソードを残した後光明天皇ですが、20歳ごろから体調を崩し、21歳の若さで病没しました。
後光明天皇の生前の振る舞いと、突然の崩御のため、後年幕府による毒殺説も囁かれたとも伝えられています。