第113代東山天皇は在位中のほとんどの時期、父である霊元上皇の院政の元にありました。
ここでは東山天皇の在位中の出来事や、住友財閥との関係についてご紹介します。
東山天皇とその時代に起きた事件
東山天皇は13歳で即位、その在位期間は元禄時代に相当し、生類憐みの令を施行した徳川綱吉の将軍としての在位期間と重なっています。
この時期は、皇室領も一万石から三万石に増額されるなど、尊皇派である徳川綱吉の江戸幕府と朝廷の関係は良好だったと考えられます。
そしてその後、徳川家宣の時代になってますます朝幕関係は安定していきました。
有名な忠臣蔵(赤穂事件)は、東山天皇が江戸へ派遣した勅使の接待を巡って、接待役の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が指南役の吉良義央に切りつけた事件です。
浅野内匠頭が切腹に処せられ、その後亡き主君に代わり浅野内匠頭の家臣の大石内蔵助以下47人が、本所の吉良邸へ討ち入りに行きました。
この有名な「忠臣蔵」は、「赤穂事件」をもとに脚色された様々な作品の総称になります。
なので、史実としてとらえる場合は「忠臣蔵」とは言わず「赤穂事件」と呼びます。
またこの事件を従来通り仇討ととらえるか、ただの復讐とみなすかは、現在でも様々な見解に分かれています。
そして東山天皇は、この事件を聞いた時に大変喜んだと伝えられています。
それには、焼失した内裏の修理を行った親王派の浅野家には好意を持つ反面、後西天皇に対する譲位への圧力などの工作に関わっていたとされる吉良義央を嫌っていたからと考えられます。
東山天皇は中御門天皇に譲位し院政を開始して間もなく、34歳で天然痘にかかり亡くなりました。
東山天皇と住友財閥との関係
住友友純は、明治時代の華族で実業家です。
東山天皇の5世孫である徳大寺公純の第六子で、住友財閥の15代総帥の住友友純は、当時は徳大寺隆麿と名乗っていました。
兄に徳大寺實則(宮内大臣)や西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)がおり、弟には末弘威麿(財団法人立命館理事)がいました。
当時の住友家の後継ぎ候補が相次いで亡くなってしまい、男系の相続者が絶えてしまう危機に陥ります。
そこで住友家の婿として住友登久の養嗣子となり、その後、住友15世を継ぎました。
その時に隆麿改め、住友吉左衛門友純と称しました。
住友家のルーツは平家一門といわれており、桓武天皇の曾孫の二十二代目に備中守忠重という人物が現れ、住友姓を称して室町幕府に仕えたとされています。
江戸時代に入ったころに、住友二代目は商売をするには京都よりも大阪だとして、当時商業の中心となりつつあった大阪に出張所を設けました。
当時銅は一大輸出品で、住友の銅精錬業は大いに栄え、これが住友財閥の起源となりました。