桃園天皇は暗殺された?在位時に起こった宝暦事件とは?

第116代桃園天皇は、先帝である桜町天皇の第一皇子として誕生しました。

ここでは桃園天皇治世の時代に起こった明暦事件と、桃園天皇暗殺の噂についてご紹介します。

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幼くして即位した桃園天皇

桃園天皇は7歳で即位しましたが、天皇の継承としては特別に異例のことではありませんでした。

幼くして天皇に即位させ、先帝が院政を敷き、天皇のすべきことを幼いうちから学ぶということは、決して無益なことではなかったのです。

しかし桃園天皇の場合、側近たちが天皇の周囲を国学者や神道家で固めてしまいました。

そんな中、竹内式部という人物が現れ、若い公家たちに天皇を尊重する「尊王論」を説きました。

竹内式部は垂加神道を学んだ人物でであり、垂加神道とは従来の神道と儒学を統合した神道のことを指します。

そして幼いころからその講義を聞くことになった桃園天皇は、天皇自身が完全な尊王論者になってしまいます。

これは、幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していた公家たちの起爆剤にもなってしまい、徳川家重将軍を追放する計画まで立てられたと伝えられています。

宝暦事件とは

幕府にとっては、朝廷内で尊王論が蔓延するのは危険なことであり、朝廷と幕府の関係を悪化させるものとして憂慮すべき事でした。

そのため、関白や桃園天皇の養母が桃園天皇を説得、講義は中止になりました。

朝幕関係の悪化を危険視した時の関白・一条道香は近衛内前らと図って、竹内式部をはじめ天皇近習7名の追放を断行しました。

追放された近習は、徳大寺・烏丸・坊城・正親町三条・中院・西洞院・高野です。

特に、竹内式部に対しては京都所司代に告訴して、所司代の審理の末に重追放に追いやられました。

この事件自体はこれで一応の終息を見ましたが、この事件は幕府の封建体制の崩壊の前触れとしてのできごととなりました。

また桃園天皇自身も、追放によって幼いころからの側近を失ったこともあり、一連の摂関家の振る舞いに反発を覚え混乱は収まりませんでした。

そしてその軋轢は桃園天皇が22歳で急逝するまで続きました。

ちなみに徳大寺公城らは、明治24年に名誉を回復され、生前の最終官位から一つ格上の追贈を受けました。

桃園天皇暗殺説

過去の天皇の中でも、暗殺されたのではないかとされる天皇は何人か存在します。

古くは第20代安康天皇から、何名もの天皇の死因が怪しいことから暗殺説が流れています。

桃園天皇の暗殺の噂の場合、22歳で急逝したことや倒幕の意思があったこと、そしてこの時代の幕府はそれを恐れていたことなどの理由が考えられます。

宝暦事件は、朝廷内の尊王論を幕府側が弾圧した出来事であり、その後明治維新に関わる思想の端緒となる重要な事件なのです。

この頃の幕府が尊王論を極端に恐れて天皇を亡き者にした、と推測することも可能ですが、史料としては何一つ残っていません。

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