徳川家の血を引く女帝、明正天皇のお墓は京都の有名なお寺に

第109代明正天皇は、第48代称徳天皇以来859年ぶりの女帝で、天皇家と徳川家の間に生まれた天皇です。

ここではこの明正天皇の生涯についてご紹介します。

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明正天皇即位の経緯

明正天皇の誕生は、天皇の外戚を得たい徳川家に対して、そのやり方に反発し、意地を通した後水尾天皇の強引な譲位劇でした。

後水尾天皇は、父である後陽成天皇の時代から皇室を尊重してくれた豊臣家を滅亡させた徳川家に対して、良い印象を持っていなかったと伝えられています。

江戸幕府2代目将軍徳川秀忠は、正室との間に生まれた娘の和子を、後水尾天皇に嫁がせました。

結婚から三年後に生まれたのが女一宮、後の明正天皇です。

その後まもなく男子が産まれたことで、後水尾天皇は早くもその男子に皇位を譲ろうとしました。

これには、禁中公家諸法度によってがんじがらめになった天皇の座を降りて、上皇となり自由にものを言えるようになりたいという後水尾天皇の願望だったのではないかと考えられます。

しかしその皇子は2歳で夭逝してしまい、後水尾天皇は女一宮への皇位継承を打診するのですが、まだこれから男子が産まれる可能性があるのために徳川は拒否します。

そしてその後、紫衣事件という、今まで天皇が高僧にだけ許した紫色の法衣の件にまで幕府が介入したことで後水尾天皇の不満は募ります。

さらに、3代将軍家光の乳母である春日局が、無位無官でありながら天皇に拝謁するという、天皇家にとっては前代未聞の暴挙で後水尾天皇は我慢の限界に達します。

そして後水尾天皇は幕府の承諾を得ぬまま、女一宮へ譲位しました。

幕府も、さすがに春日局の行動には詫びを入れないわけにはいかず、この譲位劇を承諾しました。

そして女一宮は明正天皇として即位したのです。

明正天皇の時代と後水尾上皇の院政

朝廷に対して強硬策をとり続けた徳川秀忠から、3代目徳川家光の時代になって、ようやく後水尾天皇の院政が承認されました。

明正天皇自身は、父である後水尾上皇の院政の下で直接政務に関わることはありませんでしたが、徳川家と天皇家の関係修復に大いに役立ったと考えられます。

結果的に明正天皇は生涯独身であったゆえに、徳川家の血を天皇系に残すことは叶いませんでした。

明正天皇は、21歳で天皇の位を異母弟の紹仁親王(後の後光明天皇)に譲り、その後も穏やかに暮らしたと伝えられています。

押し絵や手芸が好きで穏やかな性格だった明正天皇は引退後、父・後水尾上皇と母・和子と共に、父が設計した修学院離宮へたびたび訪れて楽しく過ごしたと伝えられています。

明正天皇という追号は、奈良時代の女帝である元明天皇と元正天皇からそれぞれ一文字ずつとったと伝えられています。

そして明正天皇は74歳でこの世を去り、母である和子と同じ、京都にある泉涌寺の月輪陵に眠っています。

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