第119代光格天皇は江戸時代後期に即位し、明治維新への基盤に影響を及ぼした天皇です。
ここでは光格天皇とその実績、そして明治維新に繋がるできごとについてご紹介します。
光格天皇の実績と時代背景
第119代光格天皇は、第122代明治天皇の曾祖父にあたります。
先帝である後桃園天皇が、産まれたばかりの皇女一人だけを残して亡くなったので、その皇女・欣子内親王を第113代東山天皇の孫と婚姻させて、光格天皇としての即位となりました。
即位から数年後、悪天候や浅間山の大噴火による天明の大飢饉が発生しました。
飢えに苦しむ民衆は京都所司代に、対策を講じるように願いを出しますが一向に状況は好転しませんでした。
幕府を見限った民衆は、御所に手を合わせるようになりました。
この現象は「御所千度参り」と呼ばれ、近畿地方一帯から続々と民衆が集まったといわれています。
光格天皇に天皇としての教育を行ってきた後桜町上皇は、この事態を見かねて御所前に集まる人々に約3万個のリンゴを配ったと伝えられています。
また、公家である有栖川家や九条家からも握り飯などが配られたとも言われています。
さらにこの事態に心を痛めた光格天皇は、人々への救済を京都所司代に自ら申し入れました。
これは、禁中並公家諸法度で行動を制限されていた天皇家が、幕府に物を申したという、幕府始まって以来のできごとでした。
本来なら法令違反であるはずのこの光格天皇の行動は、幕府も事態の深刻に苦慮していたこともあって、その罪は問わないということになりました。
これは幕府が、天皇家が民衆の心のよりどころとなっていることにあらためて気づき、幕府に対する朝廷の発言力が高まり、以後皇室での神事や儀式の復活にも結びつきました。
光格天皇による尊号事件
公家諸法度では、親王は大臣よりも低い位置に置かれており、光格天皇は自分が天皇になったにも関わらず自分の父が親王のままだということに納得がいかず、父に太政天皇の称号を贈りたいと幕府に訴えました。
ところが幕府はこれを拒絶、6年間にわたってこの問題は続いてしまうことになりました。
しかし、後桜町上皇の「尊号よりも人徳が大切」とのとりなしもあって光格天皇が折れることになりました。
これが「尊号一件」と呼ばれる事件です。
結局光格天皇の願いは聞き入れられませんでしたが、この事件によって近代天皇制の基盤が作られ、明治維新に繋がったといっても過言ではないと思われます。
学問や歌道に熱心で多才な光格天皇は、朝廷儀式の復興に尽力し、石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭も復活させました。
光格天皇は、仁考天皇に譲位後、太政上皇となり69歳で崩御されました。
