徳川家康や武将たちとの関係 後陽成天皇の処世術とは?

第107代後陽成天皇は、豊臣政権の天下統一から江戸幕府成立の時代に在位しました。

ここでは後陽成天皇と、豊臣・徳川幕府との関係についてご紹介します。

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後陽成天皇と豊臣秀吉との関係

後陽成天皇は第106代正親町天皇の皇子である誠仁親王の第一皇子として生まれ、父である誠仁親王が亡くなったために祖父の正親町天皇から譲位されて即位しました。

天下統一の真っ最中の豊臣秀吉は、後陽成天皇に接近して天下人としての正当性を得る必要がありました。

豊臣秀吉が受けた関白・太閤の位、そして「豊臣」の姓は後陽成天皇から賜ったものです。

権威と地位はあるけれど経済的に逼迫していた天皇家と、お金と力はあるけれど権威と地位のない戦国武将との利害関係が一致したのです。

秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招いて盛大にもてなしたり、秀吉の小田原征伐(北条氏討伐)の時には後陽成天皇が秀吉の出陣のお見送りをしたとされるほど、良好な関係を築いていました。

後陽成天皇を聚楽第に招いた際には、御所から聚楽第までの警護に6000人の武士を当たらせたという逸話も残っています。

後陽成天皇は君主的な動きはできない立場ではありましたが、祭祀や学問などの皇室が担っている役割を活用して皇室の威厳を守り抜きました。

徳川家康、征夷大将軍となる

1600年、関ケ原の戦いが起こって豊臣家が滅亡、徳川家康によって江戸幕府が開かれました。

秀吉の下で権威を回復した後陽成天皇でしたが、豊臣家の滅亡の後、徳川幕府になってからは状況が一変してしまうのです。

徳川家康は、豊臣家と仲が良かった後陽成天皇に対して、朝廷権威の抑制のために武家伝奏を設け、武家によって朝廷を監視しました。

また禁中並公家諸法度を制定して、朝廷の決定権などを規制しました。

また、公家と女官による不祥事が起きたり、後陽成天皇の後継者を第一皇子の良仁親王か弟の智仁親王にするかで、公卿や徳川家を巻き込んだ騒動が起こるなど問題が起きます。

そこには、後陽成天皇が息子の政仁親王と折り合いが悪く、弟の智仁親王に皇位を譲りたいと考え家康に打診したところ、反対されたという事情も絡みます。

後陽成天皇の弟の智仁親王は、一時期豊臣家に猶子になっていたことがあり、それを徳川家康が嫌ったとされています。

結局、家康が強く推した政仁親王が後水尾天皇として即位し、後に家康の孫娘の和子を後水尾天皇に嫁がせることになります。

これは後陽成天皇と豊臣家のように、徳川家と後水尾天皇の利害が一致する政策だといえます。

後水尾天皇に譲位して、後陽成天皇は上皇として仙洞御所に退きましたが、後陽成上皇は最期まで後水尾天皇と不仲のまま47歳で崩御しました。

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