とんち話やアニメで有名な一休さんのモデルは一休宗純といい、臨済宗大徳寺の僧です。
ここでは一休さん(一休宗純)の出自や逸話についてご紹介します。
一休さんは天皇の落胤?
一休宗純は1394年の正月、1月1日に生まれたといわれています。
一休宗純の母が後小松天皇に仕えていたことから、父親は後小松天皇ではないかという説が有力視されています。
一休宗純の母は後小松天皇の寵愛を受けましたが、帝の命を狙っていると讒言され宮中を追われてしまい、民間に入って密かに宗純を産んだという話も残っています。
宗純の天皇落胤説に関しては、いくつかの書物に載っているということもあり、また、宗純本人もそのことをにおわせる和歌を残していることから、かなり信憑性の高い事実だったのではないかとされています。
後小松天皇は北朝第6代天皇代で、北朝最後の天皇です。
南北朝が合一されたことによって、後小松天皇は皇室の系統では正式に歴代第100代天皇となっています。
宗純は6歳の時に安国寺に入り、その後修行して27歳で諸国を巡歴したといわれています。
一休宗純のとんち話は本当だったのか?
一休さんのとんち話として残る最古のものは江戸時代初期に書かれたものだとされているので、史実というよりも逸話の部類に入るものだと考えられています。
しかし、とんち話が生まれる要素はありました。
有名な「掛け軸の虎を捕まえてみよ」「捕まえるから絵から出してください」というやり取りも、足利将軍との話として伝わっています。
その他正月に墓場からドクロを竹の棒に刺して、死んだらこうなると近所を回ったり、木刀を腰にさして武士のようにふるまったりなど、様々な逸話が残っています。
しかも、仏門に入っていながら飲酒・肉食・女犯なども行ったと伝えられています。
一休宗純、奇行の理由とは
しかし、一休宗純の奇行にはしっかりとした意味があったといわれています。
それは、一休宗純が生きた時代が応仁の乱などで乱れきった時代だったことにあります。
形骸化してしまった朝廷、支配階級である武士や堕落した僧侶に対する批判、そして乱れた社会への風刺がこのような奇行を生み出したとされています。
一休宗純は、賢い人物であり説法を説く時はわかりやすくしっかりと説き、奇行には訳がある、そういう人物でした。
この後、俳人である山崎宗鑑や茶人である村田珠光など、その世界で一流といわれている人物が一休宗純の弟子になっていることから見ると、やはり一休宗純は名僧であったと考えられます。
そんな一休宗純でしたが、76歳の時に26歳年下の女性に恋をし、一休宗純の最期を看取ったのもこの女性だったと伝えられています。