第20代安康天皇は、名前とは裏腹に日本史で初めて暗殺された天皇です。
ここではその経緯、そしてこの時代の天皇をめぐる状況についてご紹介します。
不穏な空気は即位の前から
先帝の允恭天皇は、皇后との間に生まれた長子である木梨軽皇子を皇太子にしていましたが、木梨軽皇子は実妹である軽大郎女と恋に落ちてしまいました。
古代の天皇家では近親結婚は認められていたものの、きょうだいや異母きょうだいの恋愛はタブーでした。
そして、木梨軽皇子自身は皇太子のために罰せられず、軽大郎女だけが伊予の国に配流となりました。
罪を免れた木梨軽皇子でしたが、先帝の允恭天皇没後、暴虐の振る舞いが多く、人々は弟の穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)に味方するようになったのです。
皇位継承の危機を感じた木梨軽皇子は、弟の穴穂皇子を襲撃しましたが失敗し、逃げた先で自害しました。
こうして第20代安康天皇が即位したのです。
続く身内争い
皇位継承争いの末即位した安康天皇の時代は、ここからも複雑な身内争いで終始しています。
安康天皇は、末弟の大泊瀬皇子の嫁に、叔父である大草香皇子の娘を望みました。
大草香皇子はその申し出に喜んで、家宝としていた押木玉鬘を献上しましたが、使者にたった根使主がその宝に目がくらんで横領したあげく、大草香皇子が縁談を断ったと讒言しました。
そして激怒した安康天皇は、大草香皇子を討たせてしまいました。
この事件はこれで終わりになりませんでした、安康天皇は大草香皇子の妻である中蒂姫を皇后にしたのです。
その皇后には、眉輪王という大草香皇子との間に生まれた連れ子がいました。
ある時安康天皇が皇后に「眉輪が父を弑したのが自分だと知ったら、復習されないだろうか?」と話した時に、たまたま宮殿の床下で遊んでいた眉輪王に聞かれてしまいました。
そして記録に残されている史上初の天皇暗殺という悲劇に発展してしまいました、実行犯は7歳の眉輪王です。
日本史上初の天皇暗殺事件、その後
知らせを受けた末弟の大泊瀬皇子は、真っ先に兄弟の関与を疑いまず一人の実弟を討ち、次に眉輪王をかくまったもう一人の兄弟をも討ちました。
そして眉輪王まで討ち果たしました。
眉輪王は7歳という幼い年齢ながらも、最期まで周りを巻き込まないように凛とした態度だったと伝えられています。
これが眉輪王の乱といわれるものです。
この話は古事記の中でも、幼い子供が主人公の悲しく壮絶な物語として記されています。
そしてその眉輪の乱を鎮圧した末弟の大泊瀬皇子が、後の第21代雄略天皇となるのです。