第22代清寧天皇は、第21代雄略天皇の第三皇子で、この時代にも皇位継承に関わる事件がありました。
ここではその清寧天皇と、祀られた神社などについてご紹介します。
若いころから髪が白かった清寧天皇
先代の雄略天皇は生前、髪が白く、霊的な魅力を持つ白髪の皇子(のちの清寧天皇)を特に寵愛していました。
髪が白かったというのは、若白髪であったとの説と、アルビノというメラニン欠乏症という疾患で、元々髪の色や肌の色が白かったという説があります。
当時はそのような疾患は知られていませんでしたから、髪が白い清寧天皇は、霊的な存在に見えたのではないかと考えられます。
先帝の没後、先帝の妃である吉備稚媛が、息子の星川皇子を擁立しようと謀反をおこしました。
この謀反の背景には、吉備稚媛が吉備地方の豪族出身で、先帝である雄略天皇と吉備氏の間に度重なる対立があったことなどがあげられています。
星川皇子は吉備稚媛の助言で、大和政権の大蔵を占拠しましたが、天皇側近の大伴氏らによって火をかけられて討たれ、謀反は鎮圧されました。
皇統断絶の危機
吉備の反乱を鎮めて即位した清寧天皇でしたが、後継ぎである子がいませんでした。
後を継ぐ子がいないということは、皇統断絶を意味します。
この背景には、先代の雄略天皇が、打ち続いた皇位継承争いのために有力な皇族を弑していったという経緯があります。
そして、この皇統断絶の危機を救ったのが、播磨で発見された二人の皇子、億計王と弘計王でした。
播磨の国(今の兵庫県)の地方長官が、ある家の新築祝いに呼ばれ酒宴にでていたところ、近くにいた二人の少年に舞をさせることになりました。
そして、兄の舞のあと、その弟が舞った時に「自分たちは天下をお納めになった履中天皇の皇子の市辺押歯王の子」と歌いました。
それを聞いた長官がびっくりして、その部屋にいる人々を外に出して二人抱きしめ話を聞きました。
この二人の皇子は清寧天皇にとって、甥にあたります。
雄略天皇が弑した市辺押肇皇子の遺児で、雄略天皇の手が自分たちに及ぶのを恐れて身を隠していたのでした。
この知らせを受けた清寧天皇は大いに喜んで二人を迎え、億計を皇太子として立てました。
清寧天皇が祀られた神社
古事記には清寧天皇の陵の記載はありませんが、宮内庁は大阪府羽曳野市にある白髪山古墳が清寧天皇の陵とされています。
清寧天皇を御祭神とされる神社は、埼玉県熊谷市にある白髪神社です。
白髪神社は、白髭(しろひげ)神社とも伝えられています。
他の地にも白髪神社が存在しますが、一番有名な滋賀県にある白髭神社の御祭神は「猿田彦命」といわれており、清寧天皇とは関係のないものと思われます。