武烈天皇は本当に残酷で悪行三昧だった?武烈天皇陵はどこに?

第25代武烈天皇は、まれにみる悪行三昧の天皇とされています。

ここでは、その暴虐の天皇とされている武烈天皇について、色々な説に基づいてご紹介します。

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正史とされる武烈天皇の人となり

日本書紀に描かれた武烈天皇は、まさに残虐非道な天皇でした。

一例として、妊婦の腹を裂き胎児を見るなど、ご紹介できないような残酷な記述で埋められています。

そして宮中では出退廷の時間もいい加減になり、贅沢三昧・酒池肉林そして怠惰な音楽におぼれ、政治を顧みなかったとされています。

これは日本書紀に記載されている事柄ですが、古事記にはほとんど武烈天皇の実績には触れられていません。

そして日本書紀では、とってつけたように、武烈天皇は「理非を判定することに長け、訴訟の審理を正しく行い、罪人は厳しく罰した」という記載もあります。

そして在位8年足らずで、18歳で崩御されたと記されていますが、そうなると即位したのが10歳前後ということになります。

そしてこれまでの天皇と、諡号が全く異なります。

諡号とは、その天皇の治世に対して贈る評価からつけられた名です。

例えば仁賢天皇、仁徳天皇、清寧天皇など心地の良い、そしてどういう政策を敷いたのかわかるような諡号と違って、武烈天皇だけは「烈」というあまり響きの良くない字を使ったのでしょうか。

何故ここまで暴君に仕立て上げられたのか?

武烈天皇がなぜここまで悪行三昧の天皇とされているのか、後世では様々な研究がなされています。

日本書紀での武烈天皇は、「正しい裁判など、良いことをした」の後に「しかし、こんな悪行三昧も働いた」という順番で記されています。

これはあくまで推測の域を出ませんが、この不自然な描き方は、悪行の方を「とってつけた」と考えられます。

これは日本書紀を編纂した人物が、武烈天皇を悪者に仕立て上げなければならないという意思を持って書かれたものなのではないか、と思われるのです。

この描き方は、いみじくも中国の王朝の終焉の時の王と酷似します。

悪行三昧の王のおかげでこの王朝は滅び、新しく正しい王朝に代わった、そのパターンとリンクするのです。

武烈天皇には子がありませんでした、なのでこの皇統はいったん武烈天皇で終焉を迎えるのです。

そして次に即位するのは第26代継体天皇です、継体天皇は過去の天皇の血筋を持つ者を探して、やっと見つけたとされる天皇です。

その継体天皇を正当化させ、名君だということを主張したいがために、異常なほど武烈天皇を暴君に仕立てあげたのではないかといわれています。

武烈天皇陵

武烈天皇陵は、奈良県香芝市今泉にあり、傍丘磐坏丘北陵(カタオカノイワツキノオカノキタノミササギ)といいます。

陵形は山形とされており、かなり大きな規模の御陵です。

これだけ悪評の高い武烈天皇に、これだけ大きな陵墓を作るというのは不自然、という見方もされています。

やはり武烈天皇は、本当は名君だったのでしょうか?新しく名誉回復になる資料が発見されたら、また歴史に対する考え方も変わるのではないかと考えられます。

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