悲劇の安徳天皇と共に海の藻屑となった三種の神器の行方は?

第81代安徳天皇は、壇ノ浦の合戦で8歳で祖母と共に入水した悲劇の天皇です。

ここでは、安徳天皇と共に海の藻屑と消えたはずの、三種の神器の行方についてご紹介します。

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安徳天皇と源平合戦

安徳天皇は、第80代高倉天皇と時の権力者・平清盛の娘徳子との間に生まれた子です。

平清盛は安徳天皇が即位すれば絶大な権力を持つことになる事もあって、清盛は孫である安徳天皇をとても可愛がったといわれています。

しかし平清盛は、安徳天皇を即位させるにあたって、皇族の意見も聞かず完全に独断で即位を決定してしまったのです。

しかもこの時に天皇の決定権のある後白河法皇は、すでに平清盛によって幽閉されてしまっていたので無力でした。

平清盛は安徳天皇即位以外にも、福原京への遷都など、皇族や民衆の気持ちを逆なでする政策を打ち出し、ついに人々の不満が爆発します。

1180年にとうとう以仁王という人物が挙兵して源平合戦が始まります。

以仁王は、後白河天皇の息子で高倉天皇と異母兄弟でした。

以仁王とは、平滋子との間の子ではなかったことから天皇の位につけず、平氏の圧力が原因で不遇の時代が長かった人物です。

その頃、平治の乱で没落した源氏でありながら平氏に仕えて出世していた源頼政という人物が、以仁王に寝返り共に平氏打倒の旗をあげました。

源頼政の協力を得て、これまで平氏に屈していた各地の人々が蜂起して、各地で戦闘が行われるようになりました。

延暦寺・興福寺・園城寺の3大寺院が全て反平氏となり、屈強な僧兵たちが味方したことも以仁王・源頼政にとっては有利になる要因でした。

途中、以仁王も源頼政も死亡してしまいましたが、以仁王の令旨をきっかけとして源氏と平氏の間で激戦が繰り広げられます。

そして平清盛も戦乱のさなかで病死したことで一気に源氏が攻勢になり、倶利伽羅峠の戦いに勝利した木曽義仲(源義仲)が平安京に入り、平家軍は平安京から逃亡します。

平氏の終焉と三種の神器

平安京から屋島に逃れた平氏でしたが、壇ノ浦での最終決戦に負けてしまい、ここで栄華を極めた平家が最期を迎えます。

安徳天皇は、平清盛の妻であり安徳天皇の祖母である平時子と共に入水して命を絶ちます。

この時安徳天皇6歳、時子の「共に極楽浄土へ参りましょう」という言葉に、小さな手を合わせて礼をし念仏を唱え、時子に抱かれたまま海に身を投じたといわれています。

その時に安徳天皇は、天皇の証である三種の神器と共に入水するのですが、三種の神器のうちの二つ、神鏡と勾玉は浮かび上がってしまい、源義経軍に回収されたと伝えられています。

もう一つの宝剣は発見されることはなく、海の藻屑と消えてしまい、現存する(とされる)宝剣は、伊勢神宮の神倉から選び出されたものだとされています。

戦乱の最中であり、安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したために、一時期は日本に天皇が2人も存在するという異例の事態になりました。

しかも三種の神器を持たない後鳥羽天皇は、そのことが引け目となり、内外に対する強硬な政策を敷いたと伝えられています。

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