第75代崇徳天皇は、白河上皇の院政の犠牲になった悲劇の天皇と伝えられています。
その崇徳天皇の怨霊伝説、そして昭和天皇が勅使を出した理由についてご紹介します。
崇徳天皇の悲劇の人生とは
崇徳天皇は、父であり先帝である鳥羽天皇の譲位を受け3歳で天皇として即位しました。
しかし崇徳天皇は、鳥羽天皇の妃の璋子が産んだにも関わらず、父親は鳥羽天皇の父親の白河上皇の子だということが公然の秘密だったのです。
鳥羽上皇にしてみれば崇徳天皇は、寵愛する妃・得子との息子である、近衛天皇を即位させるまでの繋ぎ役としか考えていなかったのではないかと思われます。
こうして崇徳天皇22歳の時に、崇徳天皇の弟で3歳の近衛天皇に天皇の位を譲位しました。
崇徳天皇は生まれながらにして、自分に好意的でない視線の中で生まれ育ち、天皇として仕事ができる年齢になってすぐに政治の中枢から外されてしまうのですが、歌を愛する優しい人柄だったと伝えられています。
しかし、鳥羽上皇が推した近衛天皇はわずか17歳で亡くなってしまいました。
本来なら崇徳天皇の息子である重仁親王が時期天皇になるはずなのですが、ここでまた鳥羽上皇の圧力によりもう一人の弟である後白河天皇が即位することになります。
鳥羽天皇はあくまで自分の血筋の天皇の上で院政を敷こうと考え、崇徳天皇をあくまで排除し、後白河天皇時代も鳥羽上皇が引き続き院政を敷いたのです。
そういう経緯があったので、崇徳天皇と後白河天皇の兄弟仲は険悪でした。
そして出家して法皇となった鳥羽法皇が亡くなることで、一挙に緊張感が高まります。
この崇徳天皇と後白河天皇の対立が、摂関家や源氏・平氏一門の内部対立を巻き込み、保元の乱に発展します。
崇徳天皇の無念と怨霊伝説
保元の乱は崇徳天皇側の敗戦に終わり、崇徳上皇は讃岐(今の香川県)に流罪、加担した公家や武士達にも厳しい措置がとられました。
こうして崇徳天皇は権力への欲を諦めて、仏教に心のよりどころを求めて、五部大乗経という五つのお経を書写します。
そのお経を、自分自身の自戒と保元の乱の犠牲者の供養として、後白河天皇に京の都に納めるように頼んだところ、「呪いがかかっている」と拒否され、写本は崇徳天皇の元に返されてしまうのです。
無念の崇徳天皇は数年後に亡くなり、そしてその数年後から皇室関係者の死没や動乱が起こったことから、崇徳天皇の怨霊伝説が始まったといわれています。
しかし、崇徳天皇ご自身は悲しみや寂しさにくれて病で亡くなったという記述はありますが、怒りや恨みを残して、ましてや夜叉や天狗となったなどという具体的な史実はありません。
後に残されて罪の意識がある者たちが怨霊伝説を作ったのであれば、崇徳天皇は最後まで悲劇の天皇だったと考えられます。
それが現在まで伝わっているのか、明治天皇は自らの即位の礼を行う際に勅使を讃岐に遣わせて、崇徳天皇の御霊を京都に帰還させて白峯神社を創建しました。
そして昭和天皇も、崇徳天皇八百年際にあたる昭和39年、香川県の崇徳天皇陵に勅使を遣わせ式年祭を行わせています。
このご行為は、怨霊を恐れるというよりも、無念の崇徳天皇の御霊を安らげるという解釈の方が正しいと思われます。