病弱だった允恭天皇、その頃の時代背景はや新羅との関りは?

第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、第16代仁徳天皇の末子で、第17代履中天皇と第18代反正天皇とは兄弟にあたります。

ここでは病弱だった第19代允恭天皇と新羅の関係についてご紹介します。

スポンサーリンク
emperor-history.comレクタングル大

病弱のため皇位継承を固辞した允恭天皇

先帝反正天皇が崩御した後、群臣たちは雄朝津間稚子宿禰皇子(オアサヅマワクゴノスクネノミコ)を皇子につけようとしました。

雄朝津間稚子宿禰皇子とは、後の允恭天皇です。

ところが皇子は体が弱く、自由に歩くこともできなかったので、国を治める能力に欠けるとして即位を辞退しました。

そのため皇位が空のまま二年が経過してしまい、そこで后の忍坂大中姫命が皇子の説得に立ち上がりました。

忍坂大中姫命は真冬に、水を入れた器を手に持って皇子の前で、即位を承知するまではここを動かないと言って立ち尽くしました。

器を持つ手が震え、冷たい水がこぼれ姫の体にかかります。

そしてとうとう皇子も姫の懇願に負けて、即位を承知したという逸話が残っています。

允恭天皇と新羅との関り

允恭天皇は即位してすぐに、新羅から来日した医者によって病が治り、歩くことができるようになったと言われています。

文献によってかなり差がありますが、允恭天皇が皇位についた時にはすでにかなり年齢がいっていたと推測されます。

そのため即位する前から允恭天皇は新羅との交流が深く、皇位についた時には新羅から81隻分の船の宝(献上品)が届いたとされています。

ここで、古事記と日本書紀とでは、新羅に対する記述のニュアンスが少し違うというところに触れてみます。

古事記では「貢物ととも金波鎮漢紀武というに医者を遣わせた」と、医者の名前まで記されており、新羅の好意によって遣わされた扱いになっています。

ところが日本書紀では、「天皇即位に際して、新羅に医者を求めた」という記され方をしています。

古事記では新羅を友好国とし、日本書紀では百済を友好国とするような記述になったのは、編纂した人物に様々な背景があったのかなど、現代でも研究が続けられています。

氏姓制度の整備

允恭天皇は、治世の乱れは豪族が姓を偽っていることが原因だと考え、氏姓制度の整備に取り掛かりました。

当時は「氏」は祖先を同じくする職業や地名に由来した血縁集団を指し、「姓(かばね)」は天皇への貢献度や家格を表す称号とされていました。

ところが少しでも自分の家の家格をあげようと姓を偽る豪族が後を絶たなくなり、氏姓制度を整備する必要が出てきたのです。

そこで允恭天皇は、「盟神探湯(くがたち)」という、現代でいう嘘発見器のような方法をとりました。

これは、熱湯を入れた釜に手を入れさせて、偽りを行っている者は火傷するが、真実を述べる物は何事もないという誓約の一種です。

その結果、姓を偽るものがいなくなったとされています。

スポンサーリンク
emperor-history.comレクタングル大

emperor-history.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする