第98代長慶天皇は、朝廷が二つに分かれた南北朝時代の、第三代南朝の天皇です。
南朝を作った後醍醐天皇の孫にあたる長慶天皇には在位・非在位説があり、いまだに議論がなされています。
ここではその長慶天皇と、愛媛をはじめ各地にお墓が存在することについてご説明します。
長慶天皇の生い立ちについて
長慶天皇は南朝初代天皇の後醍醐天皇の孫で、南朝第二代天皇の後村上天皇の子です。
26歳で住吉行宮において即位したのですが、生い立ちについてはほとんど記録が残っていません。
この時代は南朝と北朝の争いの最中で、南朝は重鎮である北畠親房を失って弱体化していた時期だったので、天皇家の事績に関して明らかでない部分が多いのです。
しかし、父である後村上天皇の時代に北朝との和睦交渉をしていたのに、長慶天皇の時代になってから全く行われなかったことから、長慶天皇は北朝に対して強硬的な態度をとっていたのではないかと考えられます。
即位以後間もなく、南北朝の和平派である楠木正義(楠木正成の三男)が北朝へ降ったのですが、しばらくして楠木正義が南朝に帰参し和平派が南朝で台頭しました。
そしてその勢力の圧力によって、長慶天皇の弟であり穏健派の後亀山天皇に譲位したと伝えられています。
南朝関係の史料が少ないことで、長慶天皇の在位が疑問視されており、明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も、在位は認定されないままでした。
しかし、大正時代になって歴史学者たちの研究が決定的な在位説として評価され、これを受けた宮内庁が正式に皇統に加え、ようやく長慶天皇が在位したことが公認されました。
長慶天皇の墓が各地に存在する理由
長慶天皇は南朝の中で、北朝に対して徹底抗戦派でした。
このころの足利幕府は南朝側に南北統合を平和的に提案しており、そのために穏健派(和平派)だった後亀山天皇を即位させました。
これによって南朝の運営から外された長慶上皇は出家してしまい、その後、後亀山天皇は南北朝統合を受け入れ京都に戻ります。
しかしあくまで徹底抗戦を唱える長慶上皇は京都に戻らず、わずかな同志達と南朝としての活動を続けたと伝えられています。
そのため52歳で崩御するまで、各地の南朝支持派を巡って余生を過ごしたとされていて、それで各地に陵墓とされる墓が点在するのではないかと考えられています。
また終焉の地がはっきりしないことで、各地の関連施設が墓所と言い伝えられた可能性も否定できないともいわれています。
陵墓とされる場所とされている場所の数は20カ所以上になり、各地に伝承が残されています。
南朝の行宮があった大和、名和氏の勢力があった鳥取、北畠の残党が残った青森、新田氏の残党が戦った北関東など、日本全国に点在しています。
また味方した海賊衆のいた愛媛の浮嶋神社近くにも「浮島陵」と呼ばれる御陵があり、当地にしばらく滞在し崩御したという伝承があります。