第96代後醍醐天皇は、建武の新政という天皇中心の政治を始めようとしましたが、失敗に終わりました。
ここでは後醍醐天皇と、建武の新政についてご紹介します。
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇
後醍醐天皇は、花園天皇の譲位を受けて30歳で天皇に即位しました。
後醍醐天皇は兄である後二条天皇の遺児である皇太子、邦良親王が成人して即位するまでの中継ぎとして位置づけられていました。
そのため後醍醐天皇は、そのことを承認した幕府に対して不満を募らせていったと思われます。
何とか天皇中心の政治を取り戻したい後醍醐天皇は。幕府を倒すための計画を練るのですが、それが幕府にばれてしまいます。
計画がばれたことで、六波羅探題の軍勢が御所に侵入しますが、後醍醐天皇は女装して京都を脱出したと伝えられています。
後醍醐天皇の皇子である護良親王や楠木正成らも呼応しましたが、幕府軍に敗れて捕縛され、後醍醐天皇は隠岐島へ島流しになってしまいました。
その後後醍醐天皇は、潜伏していた同士たちが鎌倉幕府相手に善戦しているのを聞き、隠岐島から脱出して倒幕に加わりました。
この時に後醍醐天皇に賛同したのは、楠木正成・新田義貞・足利尊氏たちでした。
彼らの活躍もあって鎌倉幕府は滅び、執権・北条高時ら800人あまりが自刃したと伝えられています。
建武の新政
後醍醐天皇は京都に戻り、念願であった天皇が自ら政治を行う天皇親政「建武の新政」を始めます。
しかしこの建武の新政は、天皇中心の政治であり、貴族や公家だけを出世させ、武士は出世できないものでした。
当然、鎌倉幕府を倒す大きな力となった武士たちに対する恩賞はなかったようなもので、そのことによって足利尊氏らの離反が生じました。
命がけで幕府を倒した武士たちの心は、徐々に後醍醐天皇から離れていきました。
そして、足利尊氏は鎌倉で反乱を起こすことになります。
後醍醐天皇の周囲の人間は、足利氏と関係を戻した方がいいと意見しますが、後醍醐天皇は強硬姿勢を崩さず、結局は足利尊氏に敗れてしまいます。
足利尊氏に敗れた後醍醐天皇は吉野(今の奈良県)に逃げ、そこで「南朝」と呼ばれる朝廷を開くのです。
そして足利尊氏は、京都で「北朝」を開き、それが室町幕府となりました。
ここまで持明院統と大覚寺統に分裂して内部争いをしていた朝廷でしたが、ここで国の最高機関が「南朝」と「北朝」二つ存在することになり、50年以上続く南北朝の争いへと発展していくのです。