持明院統である光厳天皇、その苛烈な人生とは?

光厳天皇は日本の歴代135代の天皇のうちには含まれておらず、北朝初代の天皇とされています。

ここでは、この光厳天皇の波乱の生涯をご紹介します。

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歴代天皇とされていない光厳天皇

第96代後醍醐天皇の失脚を受けて、光厳天皇は即位しました。

ところが鎌倉幕府の滅亡によって復権した後醍醐天皇が、自分自身の廃位を拒否、光厳天皇の即位をも否定して、後醍醐天皇は天皇の座に返り咲きました。

後醍醐天皇は光厳天皇に「皇位には就かなかったが、特別に上皇としての待遇を与える」と言ったと伝えられています。

そのため光厳天皇は歴代天皇に含まれず、北朝の初代の天皇として扱われています。

しかし、実質的には光厳天皇の弟である光明天皇が北朝初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた15年の間、光厳上皇となって院政を行いました。

南北朝騒乱の激流に流される光厳上皇

この後、後醍醐天皇の親政に不満を持った足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗を翻し挙兵しますが敗北、いったん九州に落ち延びます。

しかし光厳上皇の後押しなどもあって、足利尊氏は力を盛り返し京都を制圧しました。

その足利尊氏によって光厳上皇の弟の光明天皇が天皇の座につき、そこから光厳上皇(光厳院)の院政が始まります。

しかしこのころ北朝(足利幕府)の中でも内部分裂が起こり、南朝第97代後村上天皇の時代に北朝は一時廃絶寸前までになってしまいます。

そして後村上天皇は、光厳院・光明院・崇光院らを連れ去って河内(今の大阪)に幽閉してしまうのです。

幕府側の攻めに籠城して徹底抗戦した後村上天皇ですが、とうとう拠点から脱出せざるを得なくなり、三種の神器を持って逃走、再び北朝が京都を制しました。

この事により、神器なし指名なしで北朝第4代後光厳天皇が誕生、光厳院らは解放され京都に戻ることができました。

仏道に励み安らかな晩年を過ごした光厳天皇

幽閉先の河内で出家した光厳院はこの時45歳、ひたすら仏道に励んだといわれています。

また、たった一人の僧を連れて一介の僧侶として各地を行脚したり、光厳院の身分を知らない野武士に橋から突き落とされたという逸話も残っています。

この時の野武士は、後に光厳院の身分を知って心から詫び、弟子にしてほしいと懇願しましたが、「自分のようなものに弟子はいりません」と優しく諭したと伝えられています。

吉野を訪れた時は、数年前まで争っていた後村上天皇と会って一日中語り合ったという話も残っています。

「乱れた天下の中での辛い毎日から解放されて、やっと心安らぐ日々が送れるようになりました、政治にも天皇の座にも興味がありません」と語って、後村上天皇の勧める馬まで断り、質素なわらじ履きで旅の僧に戻ったと伝えられています。

そして光厳院は望み通りの静かな場所で、54歳でその波乱の生涯を閉じました。

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