第60代醍醐天皇は、唯一臣籍(皇族が姓を名乗り一般人となること)の身分で生まれた天皇で、源維城(みなもとのこれざね)という名でした。
父である宇多天皇の即位の際に皇族に復帰して、後に跡を継ぎます。
ここでは醍醐天皇を支えた、藤原時平と菅原道真についてご紹介します。
醍醐天皇の政治
8歳の時に皇太子となり12歳で即位した醍醐天皇には、二人の強力なブレインがいました。
それが左大臣である藤原時平と、右大臣である菅原道真です。
この時代は摂政や関白がおらず、天皇が主体となって政治が行われた平和な時代といわれていますが、実際には藤原時平と菅原道真が政治を動かしていたといえます。
そしてこれが「延喜の治」と呼ばれ天皇主体の善政の象徴とされているのです。
醍醐天皇は、私有地ばかりの土地を天皇主導で班田収授させる法律、荘園整理令を施行し、崩壊寸前だった班田収授の体制を立て直すことに努めました。
まだ歳が若かった醍醐天皇の意思というよりも、優秀なブレインだった藤原時平と菅原道真の施政だと考える方が自然です。
そして先帝である宇多天皇の政策を引き継いで、貴族や寺社の権力を制限し、庶民を保護することに努めました。
これによって庶民は朝廷に良い印象をもち、なおかつ税収も増えるという政策ですが、菅原道真が発案したといわれています。
藤原時平と菅原道真の確執
しばらくの間は幼い天皇を守り立てていた左右大臣でしたが、次第に不和が生じてきたのです。
学者出身の菅原道真と、生まれつき貴族として育ってきた藤原時平では、考え方の違いがあったのではないかといわれています。
そして藤原時平は、菅原道真が天皇を廃して自分の身内を皇位につけようとしているという、事実無根の讒言をするに至ります。
そして醍醐天皇は道真の申し開きを聞かず、九州の大宰府に左遷してしまうのです。
先帝である宇多天皇は菅原道真に厚い信頼を置いていましたが、醍醐天皇はどちらかというと藤原時平のほうが好ましく思えたのではないかと見られます。
その際、道真から話を聞いた宇多上皇は醍醐天皇に話をしようとしましたが、醍醐天皇は取り合わなかったといわれています。
その後道真は大宰府で、貧しいながらも穏やかな生活を送り、国家の安泰と自分の潔白を天に祈りつつ生涯を閉じたといわれています。
その頃都では、藤原時平が39歳で急逝し、また皇太子まで亡くなりました。
時平の親族や関りを持つ人物が次々と亡くなり、人々は菅原道真の怨霊ではないかと噂しました。
醍醐天皇もそう思うようになり、左遷から22年も経った年に道真の官位を戻し、慰霊を行いました。
しかし数年後、御所の中で天皇が政務を執り行う清涼殿に雷が落ちて大きな被害が出ました。
醍醐天皇も体調を崩し、その数か月後に亡くなったといわれています。
現在では、これは怨霊というよりも、讒言によって人を陥れた人々の良心の呵責の表れなのではないかと考えられています。