光孝天皇の政治に欠かせない関白、藤原基経とはどんな人物?

第58代光孝天皇の先帝である二人の天皇(清和天皇・陽成天皇)が若くして即位したために、政治を行うには摂政である藤原基経の補佐が必要でした。

そして光孝天皇の時代も引き続き権力を拡大した藤原基経、ここではその藤原基経と藤原氏の絶対権力についてご紹介します。

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光孝天皇と藤原基経の関係とは

光孝天皇は3代前の仁明天皇の子で、藤原基経が担ぎ出し即位させたといわれる天皇です。

先代の陽成天皇が幼いころは、藤原基経が表向きは補佐役として政治を行っていましたが、成長するにつれて思うようにいかなくなり、陽成天皇を廃して55歳の光孝天皇を即位させました。

元々「摂政」は幼少の天皇を補佐するという役職なので、光孝天皇には摂政はいらないということになります。

しかし、光孝天皇としても摂政である藤原基経を馘首するわけにはいかず、引き続き太政大臣として政治を任せると、政治の全権を委ねてしまいます。

これが後に「関白」と同等の役職となりますが、光孝天皇の時代にはまだ関白という名前はありませんでした。

光孝天皇とはどんな人物?

光孝天皇は、宮中行事の再興に努める文化人であったと伝えられています。

和歌・和琴などに優れ、桓武天皇の先例に倣い鷹狩りを復活させたり、相撲を奨励したともいわれています。

好んで経史を読み、慈悲深く、風流人だったと評されています。

光孝天皇は文化的な活動の記述はありますが、政治に関しての記述が少ないところを見ると、政治の方はほとんど藤原基経に任せていたのではないかと思われます。

藤原氏は清和・陽成・光考天皇の3代にわたり、摂政そして関白として権力をふるいました。

ところが、光孝天皇は裏で藤原基経の専横を憂いていたのではないかという説があります。

それは、光孝天皇が自分の子供達に全て姓を与えて臣籍としたことです。

臣籍とは、皇族がその身分を離籍して、姓を与えられ臣下に降りることをいいます。

そして光孝天皇は、自分の最期が近づいた際に、一度臣籍降下させた定省親王を皇太子へ仕立てて息を引き取ります。

その定省親王は後の宇多天皇となり、光孝天皇は定省親王が自分の考えや意思がしっかりした人物だと見込み皇太子としたと思われます。

光孝天皇が、定省親王なら藤原基経の専横にストップをかけてくれるのではないか、と期待したのではないかと思われる逸話です。

そしてその後この宇多天皇(定省親王)は、天皇の権力を昔のように復活させようと、藤原氏と対立していくのです。

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