文德天皇時代前後の藤原家の台頭について

文徳天皇は、承和の変の後藤原良房に推されて、恒貞親王の代わりに立太子し、仁明天皇の譲位によって即位しました。

ここでは文徳天皇時代の、藤原家の台頭についてご紹介します。

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文徳天皇と藤原良房との確執

嵯峨天皇、仁明天皇、そして文徳天皇の時代は、嵯峨天皇の側近藤原冬嗣にはじまり藤原家が台頭した時代です。

仁明天皇・文徳天皇の側近は、藤原冬嗣の次男である藤原良房が勤めました。

優秀な官吏ではありましたが、藤原家の血を天皇系に入れて藤原家を発展させることに執着していたといわれています。

藤原良房は、良房の娘である明子をまだ皇太子であった文徳天皇に嫁がせました。

明子は文徳天皇が即位した年に第四皇子である惟仁親王(のちの清和天皇)を産み、生後八か月で3人の兄を押しのけて立太子したのです。

文徳天皇は、更衣である紀静子が産んだ第一皇子の惟喬親王を寵愛しており、いずれは天皇にと期待していたのですが、良房からの圧力で惟仁親王を皇太子にすることになりました。

惟仁親王は良房を頼りにしてはいたものの、裏では確執が生まれ始めていたのです。

天皇不在の政治の始まり

その後も良房の有形無形の圧力によって、文徳天皇は大内裏の東にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院の冷然院などに居住するようになり、一度も内裏正殿で暮らさなかったといわれています。

また文徳天皇は病に臥せりがちで、朝廷の会議や催し事に出ることも少なかったともされています。

そのことが、ますます藤原家が政治を動かすようになった原因の一つになり、この後の藤原氏による摂関政治という天皇不在化の遠因になったという説もあります。

ちなみに良房はこの後も、次の天皇である清和天皇にも姪の高子を嫁がせようとします。

ここで摂政というと、推古天皇のもとで摂政になった聖徳太子が有名ですが、本来摂政という役職は天皇が幼かったり、中継ぎの天皇の時にサポートをするために設けられた役職でした。

そして、皇太子かそれに準ずる皇族が摂政になるのが慣例でした。

後に良房は、天皇の外祖父である臣下として初めて摂政に就任し、その息子の基経がこの地位を継承して関白となるのです。

関白とは基経の時代に設けられた役職で、成人した天皇の下で摂政のような職務を行うことができます。

このような経緯で、藤原北家はますます政治的勢力を伸ばし、藤原家全盛の藤原道長時代に向かっていくのです。

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