京都にある深草北陵には、伏見天皇をはじめ12人の天皇陵が!

第92代伏見天皇は、南北朝対立のきっかけとなる後嵯峨天皇の孫に当たる人物で、91代後宇多天皇(大覚寺統)の次に即位した持明院統の天皇です。

ここではその伏見天皇と、伏見天皇の他たくさんの天皇が眠る深草北陵についてご紹介します。

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暗殺されかかった伏見天皇

第88代後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の血筋・持明院統と、もう一人の皇子の血筋・大覚寺統による両統迭立状態の中で、伏見天皇は即位しました。

持明院統と大覚寺統の天皇が交互で即位する、というのは幕府が仲介に入って取り決めをしたことなのですが、どちらの統にとってもあまり面白いことではありませんでした。

持明院統の伏見天皇は、自分の血筋が正当だとして自分の息子を皇太子にしてしまいます。

もちろん大覚寺統は黙っていません、朝廷に静かな緊張が走ることになり、そのような空気の中で、伏見天皇暗殺未遂事件が起こりました。

幸い未遂に終わりましたが、捜査により大覚寺統が背後にいるという疑惑が出てきます。

しかし大覚寺統の亀山法皇が、事件には関与していないとの起請文を幕府に提出したことで事件はそれ以上の詮索はされずに終わってしまいました。

この事がきっかけとなったのか、伏見天皇は息子の皇太子の次は大覚寺統から天皇を出すことでこの騒動は穏便に済みました。

深草北陵について

京都市伏見区にある深草北陵は深草十二帝陵とも呼ばれ、伏見天皇をはじめ12人の天皇と、初代伏見宮の栄仁親王(崇光天皇の皇子)が眠る陵墓です。

これは、同じく12人の天皇を合葬した京都府東山区にある泉涌寺境内の月輪陵(つきのわのみささぎ)と並んで、最も多くの天皇が眠る陵墓となっています。

この深草北陵以前は、一つの天皇陵に何人もの天皇を埋葬する習慣はありませんでした。

平安時代以前の天皇が崩御の際には、大規模な陵が建造され、たくさんの貢物や大勢の人々が殉死する風習がありました。

また、陵を作るにあたって膨大な費用とたくさんの民衆の労働が必要になっていたのです。

ところが平安時代以降は、天皇自ら薄葬(簡単な葬式)を望んだことや火葬が普及したことによって、墳墓自体が小規模になりました。

またこの時代以降、実質的には幕府が権威を持つようになり、朝廷の威厳や資金力が衰退していたという事実も無視できないとされています。

深草北陵は持明院統の御陵でもあり、冠木門・築地塀に囲まれた中に方形堂が建てられており、そこの納骨堂に12人の天皇と1人の親王のお骨が合葬されています。

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