第84代順徳天皇は、承久の変の敗北によって新潟に配流になりました。
ここでは、承久の変後の順徳天皇と、武家政治についてご紹介します。
才気煥発な順徳天皇
順徳天皇誕生当時、朝廷で一番権力を持っていたのは、順徳天皇の父である後鳥羽天皇でした。
その後鳥羽天皇は、順徳天皇の兄である土御門天皇に生前譲位して後鳥羽上皇となりました。
後鳥羽上皇は土御門天皇を即位させたものの、しばらくして土御門天皇の穏やかな性格に不安を持ち、その弟である順徳天皇に譲位させてしまうのです。
順徳天皇は才気煥発だったといわれており、父である後鳥羽上皇と共に、鎌倉幕府打倒に積極的でした。
そして1221年承久の乱をおこすのですが、北条政子の涙の訴えにより発奮した幕府軍に敗北してしまいます。
歴史の教科書では後鳥羽上皇(後鳥羽天皇)と承久の乱について書かれている場合が多いのですが、実際には順徳天皇もかなり関わっていたとされています。
順徳天皇は承久の乱に備えるために、息子である懐成親王(のちの仲恭天皇)に譲位し順徳上皇となりましたが、乱の後新潟の佐渡へ配流になってしまいました。
順徳上皇は配流後は佐渡院と称されていましたが、その後順徳院と諡されました。
順徳上皇の佐渡配流、その後
順徳天皇は才気煥発で、父の後鳥羽上皇と共に承久の乱を起こしたほど強気な性格だったと伝えられています。
順徳天皇が18歳の時、小倉百人一首で有名な藤原定家に歌で勝負を挑んだという話も残っており、他の人との歌の勝負の判定を定家に頼んだりもしています。
25歳の若さで新潟の佐渡に配流になり、その後20年もの間佐渡を一歩も出ることなく亡くなりましたが、その間も和歌を作り続けだと伝えられています。
佐渡にいる間の詠歌として「順徳院御百首」が残されています。
藤原定家は鎌倉幕府への配慮から「新勅撰和歌集」に順徳天皇の歌を採用しませんでしたが、「小倉百人一首」には一首採録しました。
「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり」
この歌は「皇居には軒にしのぶ草が生えるほど荒れ果ててしまった。華やかだった昔を懐かしく思う」という意味です。
この歌は、当時の朝廷の状況を如実に表現している秀歌です。
順徳院は佐渡島にて46歳で崩御、絶食による自殺という説も残っています。
佐渡の真野陵に葬られましたが、後に遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽上皇の大原法華堂のそばに安置されました。