第97代後村上天皇は、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の第七皇子で、後醍醐天皇の逃亡先の吉野で即位した天皇です。
ここでは鎌倉時代から室町時代への変遷、南北朝時代での後村上天皇についてご紹介します。
後醍醐天皇による鎌倉幕府の終焉
後醍醐天皇が即位していた時期は、天皇の血統によって持明院統と大覚寺統に分裂しており、鎌倉幕府の裁定で交互に天皇を出すという両統迭立の策がとられていました。
大覚寺統である後醍醐天皇は、幕府の介入による両統迭立体制が天皇の権力集中の妨げになると考え、鎌倉幕府を倒そうとします。
ところが計画は簡単にばれてしまい、後醍醐天皇自身が壱岐に流されてしまいました。
しかし、幕府内部でも内部分裂が起こり、幕府討伐の機運が高まってきたこともあって、足利尊氏や新田義貞などの有力な武士も幕府討伐に立ち上がりました。
その理由には、幕府の武士たちに対する恩賞不足などがあったとされています。
そして何度かの戦闘の末鎌倉幕府は倒れ、足利尊氏が新たに光明天皇(北朝)を擁立したのに対抗して、後醍醐天皇(南朝)が吉野行宮で南朝を開きました。
ここから南北朝時代という、天皇が二人いるという特殊な状況になったのです。
後村上天皇へ譲位
後村上天皇は皇子時代に、陸奥で東国の武士の統括を行っていた時期があります。
後醍醐天皇が吉野へ逃れたことを知った後村上天皇は京都に向かいますが、足利尊氏の軍勢に敗れて後村上天皇も吉野へ逃れることになり、その後吉野で過ごすことになりました。
後醍醐天皇が亡くなる前日に、後村上天皇は天皇の座を譲位され、12歳で南朝の第2代天皇となります。
父である後醍醐天皇は亡くなる間際に、左手に法華経、右手に剣を持ち「魂は常に北、北朝を睨み続ける」と、最期まで南朝の繁栄を望んだと伝えられています。
後醍醐天皇の思いを受け継いだ後村上天皇は、若年ながら、南朝が正しい天皇の血統だと主張し、南朝の安寧を祈願したり武士を統括するなど活発に行動しました。
この後北朝の内部分裂などもあって南北朝が統一する寸前までの状況になった時期もありましたが、結局は大勢を挽回できませんでした。
後村上天皇は、圧倒的な北朝の攻撃にも籠城などを駆使し、不利な状況でも捕まることはなく吉野に逃れたと伝えられています。
そしてその時に三種の神器を手放さず脱出したことによって、北朝の天皇が公認されず、その後の北朝の天皇の権威が落ちてしまったとされています。
和歌や琵琶・琴などの芸術に通じており、また源氏物語にも関心を寄せていたと伝えられている後村上天皇は、41歳で吉野の行宮で病没しました。