後円融天皇南北朝時代の、北朝第5代天皇です。
ここでは後円融天皇と、その時の将軍・足利義満との関係についてご紹介します。
後円融天皇のスピード即位の理由
後円融天皇は北朝の第4代後光厳天皇の第二子で、天皇宣下を受けて立太子してわずか二日後に即位しました。
そこには、北朝内で後継者を巡る対立があったという理由があります。
北朝の先帝である後光厳天皇は、急遽天皇に仕立てられて即位させられた天皇でしたが、やはり自分の皇子に天皇を継がせたいと考えました。
後光厳天皇は、兄であり北朝第3代崇光天皇の子が立太子してしまう前に、自分の子を皇太子にする必要があったのです。
即位した時、後円融天皇は14歳、そして後円融天皇の時代に将軍職を務めていたのが足利義満です。
足利義満と後円融天皇は3ヶ月違いの同い年、しかも母同士が姉妹だったので従兄同士でした。
ちなみに足利義満は、後光厳天皇から「義満」の名前と従五位下の位階を授かりました。
足利義満と衰退する朝廷の存在
鎌倉幕府、そして室町幕府にとって天皇家は、もはや錦の御旗でしかありませんでした。
この後足利義満は実力を発揮し、後に室町幕府の全盛期を築き上げ大将軍になっていきます。
後円融天皇の即位から11年後、足利義満は後円融天皇に退位を迫り、後円融天皇の第一皇子である後小松天皇を即位させます。
上皇になり院政を開始する後円融天皇でしたが、これも形だけで、政治をはじめあらゆる事に対して足利義満が決定権を持ち、朝廷は何も実権が与えらていませんでした。
後円融天皇の不満、そして南北朝統一へ
後円融天皇は、学問を好み書にも優れた才能をもっており、「後円融御百首」などいくつもの著作を残しました。
そのような後円融天皇だったからこそ、自ら政治を執りたいと願い、自分が傀儡であることに対して足利義満に我慢が出来なかったのではないかと考えられます。
後円融上皇の正室が義満と浮気をしているとして義満に重傷を負わせるほど殴打した、また後円融上皇の愛人が義満と浮気をしたとして、彼女を出家させるなど、義満をことごとく敵視します。
身に覚えのない義満が、弁明のために後円融上皇に使者を派遣すると、後円融天皇は義満が自分を流刑にするのではないかと恐れて自殺未遂をはかったという話も伝えられています。
結局自殺は未遂に終わりましたが、これらの一連の事件によって後円融上皇は周囲の信頼を完全になくしてしまい、それ以降は表立って抵抗することはなくなったとされています。
やがて1392年、南朝の後村上天皇の皇子である第99代後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に天皇の座を譲位し、ここで南北朝がようやく合一されました。
そしてその翌年、後円融上皇は仙洞御所で36歳の生涯を閉じました。