第104代後柏原天皇は、応仁の乱の後の混乱した時代に即位した天皇です。
ここでは応仁の乱とその後即位した後柏原天皇、そして当時の天皇家や将軍家の事情についてご紹介します。
戦国時代の幕開け、応仁の乱とは
応仁の乱とは、将軍家の後継ぎ問題に、有力守護である山名宗全と細川勝元の争いが重なったのが発端となり、10年もの長い間続いてしまった争いです。
そこに畠山氏の家督争いや、それぞれの家の事情なども絡み、最終的には誰も得をしなかったという無益な戦いとして伝えられています。
応仁の乱の結果、残念なことに数多くの歴史ある建造物は焼けてしまい、貴重な資料も多く失われてしまいました。
そればかりか、兵の規律も乱れてしまったことによって、京の住民は略奪による食料や物資が不足し、疫病も流行ったといわれています。
この応仁の乱をきっかけに、各地で守護大名同士の利害がぶつかり合い、そして各地で戦乱が恒常化するようになります。
京でも将軍家と管領である細川家との対立から、徐々に将軍の実権さえ失われていきました。
応仁の乱後に即位した後柏原天皇
後柏原天皇は先帝である後土御門天皇の崩御により天皇の位につきました。
「即位」というのは、天皇の位についたことを内外に明らかにすることを指しますが、後柏原天皇の場合はこの時点では即位することができませんでした。
その理由は、応仁の乱後の混乱によって朝廷の財政が逼迫しており、即位の礼を執り行うことができなかったことにあります。
後柏原天皇の治世は26年に及びましたが、即位の礼をあげるまで21年もの長い間待たなくてはいけなかったのです。
先帝である後土御門天皇の時代も、宮中の儀式を行う資金がなく、後柏原天皇に譲位したくても、それさえできなかったと伝えられています。
これを見かねた第11代将軍の足利義澄が朝廷に献金しようとしましたが、将軍補佐の細川政元によって「即位の礼をあげても、実権が伴わないのなら無駄だ」ということで反対された経緯もありました。
この時代の朝廷の権威は地に落ちており、民間でも即位の礼に対して冷ややかで、このような句が流されていました。
「やせ公卿 麦飯だにも 食いかねて 即位だてこそ 無用なりけり」
後柏原天皇の祈り
天皇の権威が地に落ちた時代ではありましたが、後柏原天皇は朝廷の儀式復活にのための活動に力を注ぎ、貧困や疾病に苦しむ民のことを思い続けたと伝えられています。
後柏原天皇は父の後土御門天皇と同様に、敬虔な仏教徒であり、この世の乱れは自分に徳がないせい、自分の罪であるとして、阿弥陀仏に祈り続けました。
後柏原天皇が詠じた和歌、
「心だに 西に向かはば 身の罪を 映す鏡は さもあらばあれ」
わが身のたくさんの罪が鏡に映されようと、心だけは浄土を目ざそうと望む、そのような意味です。
疱瘡が大流行した年には、自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納したとも伝えられています。