北朝第4代後光厳天皇は南北朝の争いのなかでも、一番混迷を極めた時代に即位した天皇です。
ここではこの後光厳天皇と、摂政であり優秀な歌人だった二条良基についてご紹介します。
二人の天皇と二つの元号
南朝と北朝に分裂し、それぞれ天皇を立てるという異例の事態になっていたこの時代は、元号までも二つ存在しました。
その後幕府側の足利氏の内部分裂によって、北朝は南朝に吸収される形になり、北朝の天皇数名は正式な天皇系図には載りませんでした。
北朝第4代後光厳天皇も、正式な歴代天皇として系図に載っていない人物の一人です。
南朝では後醍醐天皇が崩御し、その皇子の後村上天皇が即位した時代、同じ時期に北朝では光明天皇から崇光天皇へと天皇が譲位されました。
崇光天皇の即位から一年後、幕府の足利尊氏とその弟直義の間で争いが起きてしまいます。
この事で足利尊氏は京都を出て南朝へ鞍替えしてしまい、南朝の立場で弟直義を倒しました。
そして南朝の後村上天皇は崇光天皇を廃位して、ただ一人の天皇になり、表面上南北朝は統一されました。
後光厳天皇の即位
ただ一人の天皇として京都へ向かう後村上天皇を擁して、南朝勢力は完全武装して京都へ侵攻しました。
この際に北朝代々の天皇(光厳・光明・崇光上皇)そして皇太子である直仁親王まで南朝の本拠地である賀名生へ連れて行ってしまいました。
しかし南朝勢力は、京都にいる足利義詮に阻まれて京都を制圧することができませんでした。
京都で朝廷を立てて幕府を開いている第2代将軍の足利義詮は、北朝に天皇がいないことに焦りを感じます。
武家政権とはいえ、天皇がいなくては室町幕府の正当性を保って行くことが難しいのです。
そこで足利義詮は、崇光上皇の弟ですでに仏門に入る準備をしていた後光厳天皇を即位させたのです。
足利義詮による後光厳天皇の即位は、三種の神器なし・先帝からの指名もないという異例の出来事でした。
和歌に通じた後光厳天皇と二条良基
後光厳天皇を強引に即位させたのは足利義詮でしたが、その陰では摂政である二条良基の働きも見逃せないと伝えられています。
二条良基は優秀な歌人であり連歌の大成者ですが、北朝4代天皇の摂政関白を長きにわたって務めた人物です。
妙法院へ入るつもりだった後光厳天皇に、天皇即位を要請したのも足利義詮と二条良基でした。
二条良基は歌道に通じ、博学で幅広い知識があり、特に連歌の興隆に果たした役割は後世まで伝えられています。
また、後光厳天皇も学問を好み、和歌や琵琶も得意だったと伝えられています。
周囲に振り回された後光厳天皇でしたが、ようやく平穏な暮らしができるようになった後半生は、自ら絵を描きそれに歌を添えて楽しんだとされています。
後光厳天皇は37歳の若さで、天然痘にかかりこの世を去りました。