後伏見天皇時代前後の目まぐるしい天皇交代劇、その背景とは?

第93代後伏見天皇は、持明院統である伏見天皇の皇子であり、天皇即位期間がたった3年間だった天皇です。

後伏見天皇をはじめ、この時期の天皇継承問題はとても目まぐるしいものでした。

ここではその天皇交代劇と両統迭立についてご紹介します。

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両統迭立の時代

両統迭立(りょうとうてつりつ)とは、一国の君主の家系が2つに分裂しており、それぞれの家系から交互に君主を即位させる状態のことを指し、「迭」は、互いにという意味です。

この時代より以前の平安時代前期に嵯峨流と淳和流、また冷泉流と円融流の間でこのような状況になった事はありますが、この時代の持明院統と大覚寺統との確執ほどではありませんでした。

後伏見天皇は、父である伏見天皇の譲位により10歳で即位し、伏見天皇が院政を執りました。

この時代は持明院統と大覚寺統から交互に天皇を立てる決まりになっていたのですが、ここで持明院統から2代続けて天皇が出ることになってしまいました。

そのことで、持明院統は幕府や大覚寺統からのバッシングを受け、在位3年で大覚寺統の後宇多天皇の第一皇子である第94代後二条天皇に譲位しました。

上皇となった後伏見天皇はまだ14歳で皇子はいなかったので、次の皇太子になったのは弟の富仁親王でした。

富仁親王は持明院統で、後の花園天皇です。

その7年後後二条天皇が急逝したことによって、12歳の花園天皇が即位することになりました。

その時後二条天皇は24歳、その年は不作が続き疫病が流行ったことで、それが元で亡くなったのではないかと伝えられています。

後伏見上皇は花園天皇が在位している間院政を敷き、はっきりと両統迭立を取り決めようと動きましたが、失敗に終わりました。

両統迭立から南北朝時代への道

花園天皇は在位10年で、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位、その皇子には後二条天皇皇子である大覚寺統の邦良親王がなりました。

そして、後伏見天皇の皇子である量仁親王(後の光厳天皇)が、その次の皇太子になる事になりました。

第96代後醍醐天皇が即位したころは、父である後宇多天皇が院政を再開し、後醍醐天皇は自分の裁量で政治を行うことができませんでした。

ところがその後、邦良親王が天皇になる前に病死してしまったため、幕府の裁定で、量仁親王が皇太子に立つことになりました。

しかし後醍醐天皇はその決定に応じず幕府に反旗を翻します。

この時代の鎌倉幕府は執権である北条氏が実権を握っていたこともあり、鎌倉幕府の将軍が持明院統から出ていることに対しても、後醍醐天皇は不満を持っていたと考えられます。

後醍醐天皇が画策した統幕計画が「弘元の乱」を引き起こし、鎌倉幕府の終焉と、朝廷の南北朝時代へと移行していくのです。

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