先帝の後奈良天皇の崩御のために、第106代正親町天皇が践祚しました。
ここでは、戦国時代中盤以降、実力を持つ武将が出現する中で即位した正親町天皇と、本能寺の変との関係についてご紹介します。
織田信長と時代を共にした正親町天皇
応仁の乱以来続いていた戦国の乱世で、室町幕府は有名無実化し、朝廷も常に貧困状態で即位式や葬式なども行えない状況で、権威も地に落ちていました。
正親町天皇も践祚から即位まで4年もかかり、この費用を出したのも戦国武将・毛利元就でした。
正親町天皇は、各地の武将に権威を与える対価として寄付を募り、御殿の修理を頼むなどという政策をとりました。
そして正親町天皇が践祚から即位の間に桶狭間の戦いがおきて、織田信長が名を上げることになりました。
織田信長は時の将軍足利義昭を奉じて上洛し、正親町天皇は信長に京での軍事規律を守るように伝えました。
織田信長はその後足利義昭との関係は悪化しますが、朝廷には様々な援助を続け、正倉院の宝である香木・蘭奢待を切り取る許可をもらうなど、朝廷も信長を優遇しました。
本能寺の変
この時代は、織田信長が天下布武を掲げて勢力を伸ばしつつある時代でした。
桶狭間の戦いで今川義元を討ち、その後、一番の脅威であった武田信玄や上杉謙信が次々に死亡、天下布武を目の前にした織田信長でしたが、京都本能寺で臣下である明智光秀に討たれてしまいます。
明智光秀が本能寺で織田信長を討った理由に関しては、現代でも様々な説があり、当然のことではありますが結論は出ていません。
その一つとして、明智光秀は、織田信長が朝廷に対してどんどん高圧的になってきたことや、比叡山などの仏教勢力までも皆殺しにするなどの方針に我慢がならなかったという説があります。
織田信長は神仏を信じずに、自分を神とする振る舞いがあったことなどが、信心深い明智光秀にとっては許せなかったとされる説ですが、総体的に見ると、明智光秀の様々な思いが絡まって、明智光秀は本能寺の変を起こしたのではないかという説が有力なのではないかと考えられます。
朝廷(正親町天皇)は、信長には援助も受けており感謝はしているが、自分に譲位を迫ったりと行き過ぎた行動も目立つようになり、危機感を感じた部分もありました。
そこで正親町天皇が、朝廷との関係が深い家柄で朝廷に対し敬意を持って接する明智光秀に、信長暗殺を示唆したのではないか?という説も一部にあることは真実です。
この時代のイエズス会の宣教師の本国への報告書には、日本には正親町天皇と織田信長という二人の統治者(王)がいると記述されています。
織田信長亡き後悪越智光秀を討ち、天下を取った豊臣秀吉も、正親町天皇を後ろ盾に政治を行い、朝廷との良い関係は続き、結果的に幕府の権威は下がり皇室の権威は高まりました。