後花園天皇と残酷な足利義教との複雑な関係とは?

先帝である称光天皇が皇子なく急逝したために、北朝第3代崇光天皇の孫である後花園天皇が即位することになりました。

ここでは後花園天皇と、その時代の将軍である足利義教の人物像や関係についてご紹介します。

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後花園天皇の即位の背景

この時代は南北朝が合一されたとはいえ、まだまだ不安定な時期であったため、南朝の勢力を牽制する必要がありました。

そこで北朝3代崇光天皇の孫である後花園天皇が即位することとなり、しばらくは後小松上皇の院政が続きました。

そして後小松上皇が崩御された後は約30年間にわたり、後花園天皇が自ら親政を行いました。

後花園天皇は学問に秀で、「近来の聖主」と称されるほど行動力のある人物だったと伝えられています。

また朝廷の皇権を回復した「中興の英主」として様々な実績が残されています。

足利義教と後花園天皇との関係

足利義教は足利義満の五男で、兄が2人いたために生後すぐにお寺に入れられ、僧侶として修業を積み大僧正にまでになった人物です

しかし兄の第4代将軍足利義持が危篤に陥ったことで、足利義教は還俗して将軍職に就くことになりました。

その際、幕府の中枢たちが石清水八幡宮でくじを引いて足利義教を将軍にしたという逸話が残されていますが、これは足利義教が適任であったことを正当化させるための芝居だったのではないかとも伝えられています。

そして、称光天皇が皇子を残さずに崩御した際に、後花園天皇を即位させたのがこの足利義教です。

足利義教は優秀な僧侶で、将軍になってからもその明晰さによって様々なトラブルにも冷静に解決していたとされています。

その反面足利義教は、執念深く残虐な人物だったともされており、還俗当時に後小松院から受けた仕打ちを忘れずに、その系統に繋がる人物を徹底的に嫌がらせをしたり処罰したりしたと伝えられています。

しかし後花園天皇は賢い天皇であったことから、常に足利義教を立てており、両者の関係は良かったとされています。

足利義教の人物像とは

優秀な人物であると同時に残酷で、何事にも容赦しないという足利義教でしたが、これは足利義教が「清濁併せ呑む」ような性格ではなく、悪いものは悪いと断罪したからだと思われます。

元々征夷大将軍というのは、朝廷に従わない者を討伐する役職であって、それが足利義教の行動理念であったのではないかと考えられます。

足利義教の古巣でもある延暦寺の法師の堕落ぶりに、延暦寺を兵糧攻めにしたというできごとも、考えようによっては僧侶はこうあるべきという矜持に基づいた行為とも考えられます。

やりすぎの感もある事例は多く残されていますが、将軍職としての仕事を完璧にやろうとしていたことも事実だとされています。

足利義教は将軍というよりも、人々に正しい道を示す僧職の方が適正であったのではないかと推測されます。

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