後土御門天皇と日野富子との不倫が応仁の乱の原因?!

応仁の乱は、戦国時代の幕開けとなる重要な日本のターニングポイントです。

この応仁の乱の原因の一つに、時の天皇である第103代後土御門天皇と、将軍の妻である日野富子の関係があげられています。

ここでは後土御門天皇と日野富子、そして応仁の乱についてご紹介します。

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後土御門天皇の即位

後土御門天皇の先帝である御花園天皇は賢帝とされており、今の世の中の乱れ様を見ると、近々大乱が起きるのではないかと危惧していました。

そして応仁の乱が勃発すると後花園上皇は自分の力不足が原因と受け止め出家しました。

この頃は将軍家よりも後花園上皇の方が、一貫して世の中をまとめようと努力を重ねてきたと伝えられています。

後土御門天皇は在位中に応仁の乱がおこったこともあり、詳しい事績はほとんど伝えられていませんが、敬虔な仏教徒であり、朝廷や人々の困窮の原因は自分の罪にあると考えて阿弥陀仏の慈悲にすがったとされています。

室町幕府第8代将軍足利義政の正室、日野富子

将軍足利義政の正室である日野富子は、義政に嫁いでから一度の死産の後しばらく子ができませんでした。

そこで義政は実の弟である足利義視を後継者として選んだのですが、結婚して10年後に富子は男児を出産します。

その男児が後の足利義尚なのですが、その義尚を将軍職を継がせたいと思うようになった義政と、後継者候補だった義視は反目し、対立するようになってしまうのです。

その頃、足利義尚は当時の天皇である後土御門天皇と、日野富子の不倫の末に生まれた子だといううわさが立ちます。

その噂以前に、後土御門天皇と、日野富子に仕える女性が密通して皇女を産んでいる事実もありました。

この出来事が本来なら厳罰に処されるところを不問にされていることからも、後土御門天皇と日野富子の関係が怪しいとされていたという背景もあります。

足利義政と日野富子

足利義政は酒色や趣味に溺れた人物だったとされており、富子が義政に嫁いだころからすでに多くの側室がいました。

中でも義政は今参局という女性を寵愛しており、御所は彼女の支配下でとなり、また他の側室たちも次々に男子を産んでいました。

富子は嫁いでからしばらく男子どころか子に恵まれなかったことや、義政が勝手に義視を後継者にしてしまうこともあって、皇居にいる叔母の元に身を寄せます。

その頃に後土御門天皇と密通したと伝えられていますが、資料は乏しく真実は謎のままです。

富子は稀代の悪女、または女傑などと言われています。

富子が義政との子を死産したことを、義政の側室の今参局の呪いのせいだと義政に直訴し、それが巷の噂にもなりました。

今参局を寵愛していた義政でしたが、正室である富子が後継ぎを死産してしまったことで今参局の身辺をを調査することになりました。

その結果が曖昧なまま、今参局は呪いをかけた罪で配流処分になってしまい、護送される時に急遽死刑に変更されてしまいました。

それにより刺客が今参局を追いましたが、今参局はそれを良しとせずに途中の近江の国で自害してしまいます。

この事件が富子の陰謀だったと伝えられていますが、これも真実は明らかになっていません。

後継者争いから端を発した応仁の乱

富子は我が子義尚を将軍にしたいと画策し、幕府の実力者である山名宗全を頼りました。

これに対して義視側は、元管領の実力者である細川勝元に援助を頼み、山名家と細川家が激しく対立することになります。

更に官僚候補の家柄であり、後継者争いで揉めていた斯波家と畠山家が義視派と義尚派に分裂します。

そしてその配下となる諸国の大名もいずれかの派に分かれて、日本全国を二つに分けた戦闘、応仁の乱に発展するのです。

応仁の乱は10年も続き、京の人口は激減、庶民も困窮し、残念なことに多くの公家屋敷や歴史ある建築物や貴重な史書の類が焼失してしまいました。

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