第101代称光天皇は、混乱の南北朝が合一した時の北朝の天皇だった後小松天皇の皇子です。
南北朝が合一したばかりで揺れていた朝廷の中での称光天皇と、その時代の朝廷の様子についてご紹介します。
称光天皇即位の経緯
南朝と北朝に分裂して争っていたのみならず、称光天皇が即位したころ、は北朝の中でも皇統が二つに分裂して争うという複雑な時代でした。
南北朝合一の条件の一つに、以後天皇は南朝と北朝が交互に立つという項があったことで、第99代後亀山天皇(南朝)が第100代後小松天皇(北朝第6代)に譲位する形で収まりました。
南北朝合一の後、後亀山上皇は後小松天皇の次は南朝の天皇が立つと思っていたのですが、第4代将軍の足利義持によってその期待は裏切られました。
足利義持と後小松天皇は、後小松天皇の第一皇子である躬仁皇子(のちの称光天皇)を次の天皇にしようと画策しはじめたのです。
そのことに激怒した後亀山上皇は吉野へ出奔して抗議しますが、その甲斐なく第101代称光天皇が即位し、後小松上皇による院政が始まりました。
称光天皇と弟の小川宮
称光天皇は幼いころから病弱で、何度も危篤状態にまでなったといわれています。
また称光天皇と弟の小川宮には奇行が多く、宮中で様々な騒動を起こすことも多く、また兄弟仲も悪かったと伝えられています。
そしてこの称光天皇が即位している時期は、幕府が政治を行っており、朝廷はただのお飾りでした。
そして朝廷の中でも後小松上皇が院政を敷いていたので、称光天皇の事績はほとんど残っていないのです。
称光天皇はまだ若いのですが病弱なので後継ぎができないのではないかと心配した後小松上皇は、足利義持と相談して称光天皇の弟の小川宮を皇太子としました。
小川宮という人物は、兄である称光天皇以上に奇行が多く、称光天皇が可愛がっていた羊をひどく欲しがっていて、強引に譲り受けてすぐに撲殺したという逸話が残っています。
小川宮の急逝、そして称光天皇の後継者問題
小川宮は称光天皇より3歳年下の弟ですが、元服を控えた前月に22歳の若さで急逝しました。
この急逝は、毒殺ではないかといわれるくらい不可解な死であったと伝えられていますが、この事に関しての詳しい記載は残っていません。
称光天皇は問題行動が多く、後小松上皇や足利義持を大いに悩ませたと伝えられています。
称光天皇が体が弱かったことで皇子を儲ける可能性は低く、後小松上皇や足利義持は後継者先帝に苦慮しました。
そのこともあって、称光天皇と後小松上皇との関係は険悪だったといわれています。
そして皇子を残さずに称光天皇は28歳の若さで崩御しました。