第88代後嵯峨天皇は、急死した四条天皇の後に即位した天皇で、承久の乱で土佐に流された土御門天皇の子供です。
ここでは、この後の南北朝対立のきっかけとなるご嵯峨天皇についてご紹介します。
御嵯峨天皇の即位の経緯
承久の乱とは、鎌倉時代の初めに、朝廷の権威を取り戻そうとした後鳥羽上皇・順徳上皇と、鎌倉幕府との戦いです。
結果的に幕府側が勝利し、後鳥羽上皇と順徳上皇は流罪、順徳上皇の兄弟である土御門上皇も自ら配流となり、後鳥羽上皇直系の血筋は天皇を継承することができなくなりました。
幕府は戦犯である後鳥羽上皇の血筋ではない天皇を擁立しようと、第87代四条天皇を即位させたのですが、四条天皇は不慮の事故で早世してしまいます。
こうなると、本来は即位させたくない後鳥羽上皇の血筋から天皇を選ばなくてはならなくなりません。
そこで後鳥羽天皇の子ではあるけれど、承久の乱に積極的に加担しなかった土御門上皇の子を天皇にすることにしたのです、これが第88代後嵯峨天皇です。
そこには、執権である北条泰時の働きかけも大きかったといわれており、そのため後嵯峨天皇在位中は幕府との関係は良好だったとされています。
御嵯峨天皇のその後と南北朝対立のきっかけ
御嵯峨天皇は北条氏を後ろ盾に、各地に御殿を建設して遊宴したりして過ごし、即位から5年後に第三皇子である後深草天皇に譲位します。
しかしこの後深草天皇が、小柄で足腰が悪かったために、後嵯峨上皇は第七皇子である恒仁親王を天皇にしたいと思うようになりました。
恒仁親王は健康で優秀だったと伝えられており、結局御深草天皇を半強制的に退位させ、後深草天皇の弟の恒仁天皇を第90代亀山天皇として即位させました。
そして後嵯峨上皇は出家して後嵯峨法皇となった後、53歳で崩御しました。
その時の遺言が「亀山天皇の後はその息子である世仁親王に天皇を継がせる」というもので、その遺言通り第91代後宇多天皇(世仁親王)が即位します。
そのことで、強制的に退位させられた御深草天皇の不満が頂点に達しました。
後嵯峨法皇の三回忌に出席した後深草上皇は、自らの血で書いた法華経を持って亡き法皇にその無念の思いを祈願しました。
亀山上皇はこの事件を収めようと、後宇多天皇の次の天皇に後深草上皇の息子である煕仁親王を自分の養子とし、次の天皇になれるように皇太子としました。
後に深草天皇の血統が「持明院統」、そして亀山天皇の血統が「大覚寺統」と呼ばれ、更に持明院統が北朝・大覚寺統が南朝となって、南北朝の時代へ突入していくのです。
そしてこの先100年もの間、持明院統と大覚寺統そして南北朝の戦いが続くのですが、その火種を作ったのが後嵯峨天皇の遺言にあったと考えられます。