密教の阿闍梨となった後宇多天皇、御陵や生涯は?

第91代後宇多天皇は、大覚寺統の始祖となる亀山天皇の第二皇子として誕生しました。

ここでは後宇多天皇と、その前後の天皇即位についてご紹介します。

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後宇多天皇の即位時代

1267年、第90代亀山天皇の第二皇子として誕生、生後8カ月で祖父の後嵯峨天皇の意向により皇太子となりました。

わずか8歳で亀山天皇より譲位を受けて天皇となったことで、亀山上皇による院政が行われることになりました。

そして、亀山上皇の血筋(大覚寺統)に天皇が続くことに不満を持った後深草上皇(持明院統)が幕府に働きかけ、後深草上皇の皇子である伏見天皇を皇太子(次期天皇)としました。

そして21歳で伏見天皇に譲位、その後持明院統と大覚寺統は交互に天皇を擁立していくことになり、皇統の分裂が続くことになるのです。

この後何代か、持明院統と大覚寺統の間で頻繁に天皇が交代しましたが、後宇多天皇の子である第96代後醍醐天皇が即位したことによって、後宇多天皇は本格的に院政を敷くようになりました。

しばらくして後宇多天皇は、院政を停止して隠居し、それ以後後醍醐天皇の親政(自ら政治を執ること)が始まりました。

後宇多天皇時代の元寇

後宇多天皇が即位している時代に、日本に元寇が来襲しました。

元寇とは、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国や、その属国の高麗王国によって行われた日本侵攻のことをいいます。

1度目の元寇は文永の役、2度目は弘安の役といい、蒙古襲来とも呼ばれています。

これは第二次世界大戦(太平洋戦争)以前に他国から日本が受けた唯一の戦いです。

モンゴル帝国はチンギス・ハン(ジンギス・カン)が作り上げ、その初代チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが国号を「元」に改め、それから10年後に日本へ侵攻を始めたのです。

日本侵攻に先駆けて、フビライは日本に対して降伏と服従を促す使者を派遣してきましたが、時の執権・北条時宗はこれを強気で黙殺しました。

そして攻めてきた場合を想定して軍備を増強してこれに備えました。

伝説では神風が巻き起こり元寇を退散させた、とありますが、そのような神変が起こらなくても、日本軍は強く、地の利を生かした集団戦などで元寇を退却させたとも伝えられています。

このころの記述には、後宇多天皇に関する事績はほとんど載っていません、それほど天皇家の存在が衰退して、幕府が政治を動かしていたかの証明になると考えられます。

阿闍梨となった後宇多天皇

多くの天皇が仏教に帰依したことは言うまでもありませんが、天皇だった人物が自ら密教の阿闍梨になった事例は2つしかありません。

それは、宇多天皇と後宇多天皇で、この2人の天皇は阿闍梨となって修行をして祈祷を行い多くの弟子を育てました。

阿闍梨とは、決められた修行を終えて弟子の模範になるような位の高い僧侶のことをさします。

後宇多天皇はその諡名からもわかるように、宇多天皇を崇敬しており、宇多天皇と同じ密教に傾倒して晩年には大覚寺に住持しました。

また後宇多天皇は、幼いころから密教に深い関心を寄せていたと伝えられており、不安定な時代に様々な確執の中で即位した自身の存在に不安を抱き、密教僧として生きることにしたのではないかとも考えられます。

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