第83代土御門天皇は、後鳥羽上皇の院政の下でひっそりと一生を過ごした天皇です。
ここでは和歌を愛した土御門天皇と、この時代の背景についてご紹介します。
土御門天皇と承久の乱
土御門天皇は、父である後鳥羽天皇の譲位によって3歳で天皇となり、事実上後鳥羽上皇による院政が敷かれていました。
後鳥羽上皇には3人の男子がいたのですが、土御門天皇に譲位された理由は、簡単に占いによってあわただしく決められたという逸話が残っています。
しかもそのことに対して藤原定家が、大切な事を決めるのに占いで軽率に決めたと激しく非難したという話も残っています。
しかし後鳥羽上皇は、成長しても温和な性格であった土御門天皇を頼りなく思い、不安を感じ退位を迫りました。
そして3歳で即位した後12年で、異母弟である才気煥発な順徳天皇に譲位することになり、土御門上皇となりました。
承久の乱の際、父の後鳥羽上皇と弟の順徳天皇は幕府を倒すのに積極的だったのに対して、土御門上皇は「その時期ではない」と静かに諫めたといわれています。
この事から、土御門上皇は穏やかな性格ではあったものの、決して愚鈍ではなく冷静な人物だったのではないかと推測されます。
1221年に承久の乱が起き、朝廷側は負けて後鳥羽上皇らは各地に配流になってしまいましたが、土御門上皇自身は事件に何も関与していなかったので処罰の対象になりませんでした。
しかし、父の後鳥羽上皇らが配流されているのに自分だけ京にいるわけにはいかないとして、自ら土佐国に流されるように申し出ました。
後に、より都に近い阿波国に移され、出家して崩御するまで厚遇されたと伝えられています。
厚遇されたのには、土御門上皇があくまで乱に反対だったことや、人々に慕われる穏やかな性格からだったのではないかと伝えられています。
和歌を愛し余生を穏やかに暮らした土御門上皇
土御門上皇は、京の都で後鳥羽上皇・順徳上皇と共に新古今和歌集の歌人たちと並び、優れた歌人だったといわれています。
土御門上皇は22歳の時初めて、百首和歌(土御門院御百首)をまとめました。
また土御門上皇は、藤原定家・藤原家隆に師事し、配流された土佐国や阿波国で詠んだ和歌を、京の藤原家隆に送って点評を求めたといわれています。
土御門上皇の詠む歌の特徴は、藤原家隆の歌風に近い、枯淡・平明なものであったとされています。
土佐国から阿波国へ移される際に、途中の土佐の常楽寺に滞在しました。
その場所で月を眺めながら
「鏡野や たが偽りの 名のみにて 恋ゆる都の 影もうつらず」
という歌を残しました。
この伝承から「月見山」の名が生まれて、山上に土御門上皇仙跡碑が立てられました。