後白河天皇と崇徳上皇との争いが保元の乱へ!その経緯は?

第77代後白河天皇は、平安時代末期から武家の時代に移行する動乱の時期の天皇です。

ここでは後白河天皇と、崇徳上皇との間に起きた保元の乱についてご紹介します。

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鳥羽上皇の院政

院政とは、天皇が若く自分では政務を執れない場合に、先帝である上皇や法皇が代わって政治を行うことをいいます。

鳥羽上皇は現役天皇の補佐を摂政や関白に委ねるのではなく、上皇や法皇、つまり天皇家で政治を執ろうとします。

鳥羽上皇は、息子である第75代崇徳天皇を疎んじていました。

それは崇徳天皇が、妃の璋子と祖父である白河上皇との子供だという公然の秘密があったことに起因します。

そして第76代近衛天皇に早々に皇位を継承させましたが、近衛天皇も若くして病に斃れてしまいます。

そこで第77代後白河天皇が即位したのですが、後白河天皇は天皇継承順位が低かったせいで皇位とは距離を置き、若いころは「今様(いまよう・楽曲)」に傾倒していたと伝えられています。

その後白河天皇は29歳で即位、当初は次の天皇までのつなぎ役のはずでした。

皇位継承問題から保元の乱へ

簡単に言うと保元の乱は、崇徳上皇が院政を敷いて政治の実権を握りたかったのですが、弟である後白河天皇が即位したので院政ができなくなってしまったことに起因します。

崇徳上皇側には藤原頼長、後白河天皇側には藤原忠通がつき、藤原氏の摂関家としての家督相続も絡んできます。

そして鳥羽法皇が亡くなったことで、これらの対立関係が表面化していき、お互い兵力を集めようと源氏や平家の武士勢力に援軍を求めます。

源氏は、源為義が崇徳上皇につき、その息子の源義朝が後白河天皇につきます。

平氏も同じように二つに分かれ、平清盛は悩んだ末に後白河天皇側につきます。

そして後白河天皇側の奇襲によってあっけなく勝敗が決まり、敗戦側のほとんどが斬首刑になるという、残酷な結果となりました。

保元の乱の歴史的意義とは

保元の乱は歴史的に大きな意義を持ちます。

それは、皇位継承問題や摂関家の争いに、初めて本格的に武士が参戦したことにあります。

朝廷や貴族たちはこれまで武士を護衛としか考えておらず、紛争への対策などに力を借りる存在でした。

むしろ武士が朝廷に介入することを危険視していましたが、保元の乱で皇族や貴族は武士の存在なしでは自分たちが生き残ることができないと実感したのです。

保元の乱以降の朝廷では、内部の問題を解決するには武士が欠かすことのできない時代になります。

そしてこの先、保元の乱で活躍した武士たちが力をつけていき、朝廷中心の平安時代が終焉に近づくのです。

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