白河天皇と後白河天皇との違いとは?「後」の意味は?

第72代白河天皇は、院政を始めたことで有名な天皇です。

ここではその白河天皇の院政と、「後」の意味について説明します。

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藤原氏の衰退と、白河天皇の院政

先帝の後三条天皇の後、息子である白河天皇が即位しました。

それと同時に、後三条天皇の異母弟の実仁親王がわずか2歳で皇太子に指名されました。

後三条天皇は、摂関藤原氏のことを良く思っておらず、朝廷から藤原氏の勢力を排除しようとしていた天皇で、その意思を継承しようと白河天皇をただの中継ぎとして考えていたとされています。

しかし、実仁親王が早くに亡くなってしまったことで状況が変わってくるのです。

後三条天皇は生前に、実仁親王の後はその弟の輔仁親王に天皇の位を継がせるとの遺言を残しましたが、白河天皇はそれを無視して自分の息子を天皇に即位させました。

それが当時8歳だった堀川天皇で、藤原師実という人物が摂政として補佐することになりました。

堀川天皇は成長して有能な君主に成長し、摂政が師実から息子の師道に譲り、表向きには藤原氏による摂関政治が復帰したように見えました。

しかし師道も早くして亡くなり、息子の藤原忠実が関白を引き継ぐのですが、堀川天皇も藤原忠実もまだ若く、当時起きていた様々な政治的問題に手を焼くことになります。

必然的に、政治的経験豊富な白河法皇が政治の実権を握らざるを得なくなり、これが院政の始まりだと言われています。

法王とは、現役の君主を「天皇」、引退した後の天皇を「上皇」そして上皇が出家した場合は「法皇」という呼称になります。

後〇〇天皇の、「後」の意味とは

○○天皇という名前は、実は亡くなってから贈られる名前で「諡号」「追号」があり、現役のころは「御門」などと呼ばれているのです。

諡号とは、その天皇の業績をたたえて付けた名前で、例えば初代神武天皇は「神のような武を持った天皇」というような意味になります。

追号とは、天皇の住居だった土地などの名からとった名前で、第51代平城天皇は平城京に愛着を持っていたのでその名前になりました。

そして「後」がつくことを「加後号」といい、第68代後一条天皇が初めです。

第66代一条天皇は皇居の名前から追号を送られたのですが、後一条天皇に同じ名前は付けられず、区別するために「後」をつけたケースもあります。

また、生前に自ら名前を決める天皇もいました。

南北朝時代に活躍した後醍醐天皇は、醍醐天皇を理想とし、その意思を受け継ぐ者として、自ら後醍醐天皇と名乗ったと伝えられています。

ちなみに、「徳」がつく天皇は、無念を残して亡くなった天皇が、その怨念を残さないよう、魂を鎮めるために「徳」の字を用いることもあったとされています。

保元の乱で敗れて流刑になった崇徳天皇や、無念のうちに若くして入水した安徳天皇などがこれに当てはまります。

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