禅宗の信仰に厚かった花園天皇、深く関わった大徳寺の歴史とは

第95代花園天皇は、先帝である大覚寺統の後二条天皇が急逝したために12歳で即位しました。

ここではこの花園天皇の優れた洞察力と、関わりの深かった大徳寺についてご紹介します。

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花園天皇の人物像とは

花園天皇は在位期間10年間ほどの間、前半は父の伏見天皇が、そして後半は兄の後伏見上皇が院政を敷き、自身ではほとんど政治に関わることがなかった天皇です。

そのため事績に関してはほとんど伝えられていませんが、花園天皇は歌道や学問に優れ、特に和歌では京極派という和歌の流派の主要人物でした。

花園天皇は上皇になった折に、皇太子となった甥の量仁親王(後の光厳天皇)を訓戒するために「誡太子書」と「学道之御記」を書きました。

この誡太子書には、「天皇だからといって遊んでいてはいけない。万世一系だからといって勉強しなくても天皇になれると思ってはいけない。ただの役人でも能力がない人間がその役職に就くと、その組織は乱れてしまう。天皇だったら余計にそうなるので、身を引き締めて徳を積みなさい」

意訳ですが、このような内容の文章が書かれています。

また「苦労を知らずに過ごし、庶民の生活の苦しさを考えたことのない人間が天皇になってはいけない」という文章もあり、花園天皇は地味な存在ながら、賢く洞察力に優れた人物だったと考えられます。

誡太子書は、皇太子殿下もお読みになったとされています。

そして花園天皇は、読経や念仏を欠かさない、信心深い人物とも伝えられており、禅宗に傾倒し出家しました。

花園天皇と大徳寺

京都市北区にある大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は幼いころは天台宗を学ぶのですが、後に禅宗に目覚めました。

鎌倉そして京都で修行を続けていた宗峰妙超は、同郷の赤松円心の帰依を受けて、京都の洛北紫野に小堂を建て、これが大徳寺の起源といわれています。

そして花園上皇は宗峰妙超に帰依し、大徳寺を祈願所とする院宣を発しました。

院宣とは、天皇の発する宣旨に相当する上皇からの令を受けた院司が、奉書で発給する文書です。

このころから大徳寺は、寺院としての形態が整ったとされています。

その後大徳寺は多くの名僧を輩出し、また茶の湯の文化との縁が深く、日本文化に大きな影響を与えて来ました。

現在でも境内には、仏殿や法堂の他、20を超える塔頭寺院が並んでおり、国宝や重要文化財も多数あります。

また花園天皇は出家して法名を遍行と称して、仁和寺の花園御所を寺に改め、妙心寺を開基しました。

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