第73代堀河天皇は「末代の聖王」と呼ばれ、善政を行った天皇と伝えられています。
ここではその堀河天皇と、堀河天皇陵についてご紹介します。
末法の世に現れた名君、堀河天皇
堀河天皇は、義理の外祖父である関白・藤原師実と協力し政治を行いました。
そしてこのころは、先帝である白河上皇との関係も悪くなく、白河上皇も院政を敷く意思はありませんでした。
そして堀河天皇が成人し、関白も藤原師通に代わった後もその体制は続きました。
関白藤原師通は父である師実よりも、上皇の政治関与には批判的だったので、白河上皇とは一定の距離を置いていたと思われます。
自ら政治を行おうとする意志が強かった堀河天皇は、優しくて穏やかな性格だったとも伝えられています。
政務も熱心に行い、役人が提出した書類も丁寧にチェックし、後に役人に質問するなど、宮廷内での人望も厚かったと伝えられています。
史書によると、この時代は「民安く、世はのどかなり」と記述されています。
関白藤原師通から藤原忠実へ
白河上皇自身も後見人としての役目を終えたとして出家し、白河法皇となり、しばらくは堀河天皇と藤原師通との二人三脚で順調に政務は遂行されていきました。
しかし、藤原師通が若くして亡くなってしまい、師通の長男である藤原忠実が関白の座を引き継いだのですが、藤原忠実は堀河天皇の補佐をするにはまだ若かったのです。
そうなると堀河天皇は、白河法皇に政務を相談しないとならなくなり、ここから藤原氏の摂関家としての地位は衰退していきます。
そして白河法皇が現役天皇よりも権力を持ち再び政治を行うようになり、これを院政と呼びます。
また堀河天皇の第一皇子である宗仁親王(のちの鳥羽天皇)の母が亡くなると、白河法皇が宗仁親王を引き取り院で育てたとされています。
堀河天皇は徐々に政治への関心を失っていき、興味は和歌や音楽に移っていきました。
特に管弦は、夜の御殿に笛の譜を貼りそれを覚えようとしたと伝えられ、その腕前も藤原忠実が「比類なし」を称賛するほどでした。
また和歌でも歌人衆に恋の歌を詠ませ「堀河院艶書合」を主宰したり、勅撰和歌集の金葉和歌集などにいくつもの歌が入集しています。
そして堀河天皇は、29歳の若さで崩御しました。
堀河天皇陵
堀河天皇陵は、宮内庁によって京都市右京区にある竜安寺内にある後円教寺陵に治定されています。
そしてこの御陵は、一条天皇陵(円融寺北陵)と同じ場所にあります。
この辺りにはいくつもの天皇陵がある地域で、一条・堀河天皇陵のある場所は竜安寺管轄の陵墓郡で山頂に位置します。
そしてここは、現在では絶景スポットとして有名です。