近衛天皇の死因は呪いだった?!この時代の政権争いとは?

白河上皇・鳥羽上皇の時代に生まれ、わずか3歳で即位させられた第76代近衛天皇は呪いによって亡くなったという逸話が残っています。

ここではこの近衛天皇と死因、そして平安末期のこの時代の背景についてご紹介します。

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近衛天皇の生涯

先帝の崇徳天皇の譲位を受けて、近衛天皇は3歳で即位しました。

近衛天皇は、鳥羽天皇と寵妃得子の間に生まれた男子で、兄であり先帝の崇徳天皇を良く思わない鳥羽天皇(この時点では鳥羽上皇)によって早々に即位させられたと伝えられています。

先帝の崇徳天皇は、鳥羽天皇の息子ではあるものの、本当の父親は鳥羽天皇の父親の白河天皇という公然の秘密があったとされています。

白河天皇は、養女である璋子を鳥羽天皇に嫁がせたのですが、璋子は白河天皇とすでに関係があり、生まれた崇徳天皇は白河天皇の子だということです。

3歳の天皇が政務を行えるはずがなく、父親の鳥羽法皇が院政を敷きました。

近衛天皇は15歳になったころから病気がちになり、同時に失明の危機に陥ったとされ、譲位の意思を関白藤原忠通に伝え、17歳で崩御しました。

近衛天皇は結局子供には恵まれませんでしたが、近衛天皇は容姿端麗で頭もよく、和歌にも優れた人物だったと伝えられています。

先帝である崇徳天皇、そして近衛天皇も、周辺人物に翻弄されてしまった無念の天皇であったと考えられます。

近衛天皇崩御、そして後継者問題で勃発した保元の乱

近衛天皇の後継者は、近衛天皇の弟にあたる後白河天皇でした。

そしてその後、絶対権力者である鳥羽法皇が亡くなると、疎外されていた崇徳上皇が立ち上がります。

崇徳上皇側と後白河天皇側の争いは、摂関家である藤原氏、そして源氏や平家を巻き込んだ闘い、保元の乱に発展するのです。

後白河天皇側には、藤原忠通・源義朝・平清盛が、そして崇徳天皇側には藤原頼長・源為義・平忠正がつき、結局後白河天皇側の勝利となります。

そしてこの乱によって活躍した源義朝や平清盛が後に名を轟かし、武士の時代の幕開けのきっかけとなります。

近衛天皇の死因、藤原頼長の呪詛?

保元の乱の原因の一つになった近衛天皇の眼病そして死去は、藤原頼長の呪いのせいだという話が残っています。

藤原頼長の父である関白・藤原忠実は、優秀な頼長を寵愛し関白職を譲ろうと思っていました。

しかし藤原頼長は優秀で完璧であったために、却って周りの人物に疎まれてしまうのです。

しかも、近衛天皇に関白に頼長を推薦したところ却下され、藤原忠実にかなりの不満がたまっていたと考えられます。

そして、近衛天皇が崩御した際に、藤原忠実が「近衛天皇の崩御は藤原頼長の呪いだ」と後白河天皇に告げたとされ、それが近衛天皇は藤原頼長の呪詛によって亡くなったということになりました。

口寄せによって現れた近衛天皇の霊が、「何者かが自分を呪うために、愛宕山の天公像の目に釘を打ち、それで眼病を患い死に至った」と告げたといわれています。

そして愛宕山の僧に訪ねてみたところ、数年前の夜中に誰かが釘を打ち付けたことがあったと答えたと伝わっています。

それが真実かどうかは謎のままですが、この話を信じた鳥羽上皇と妃の得子が頼長を恨むようになり、これが保元の乱の一因になったと考えられます。

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