第66代一条天皇は、賢く温和だったと伝えられており、藤原氏隆盛に大きく関わった天皇です。
ここではその一条天皇と藤原氏の関りについてご紹介します。
一条天皇と二人の皇后
この時代の天皇には、正室である皇后以外にも何人もの妻と呼べる女性がいました。
子孫を残さなければならないということもあり一夫多妻制だったのですが、そこには一応序列というものがありました。
一条天皇は定子と彰子という二人の女性が正妻という立場で存在しました、これはかなりのレアケースといえます。
先に皇后となったのは、当時の権力者であった藤原道隆の娘の定子でした。
この時、一条天皇が満10歳、定子は満13歳で幼かったのですが、一条天皇はこの定子に深い愛情を注いでいました。
しかし定子の父である道隆が病没し、さらに長徳の変という事件により、藤原貞子の後ろ盾だった藤原伊周が失脚し、それによって台頭してきたのが藤原道長です。
藤原道長は何とかして娘の彰子を一条天皇の正妻にしたいと企て、皇后と中宮の両方とも一条天皇の正妻扱いにするという強引な策をとりました。
結局一条天皇は「一帝二后」という異例の状態になり、定子と彰子はともに正妻という微妙な立場になりました。
一条天皇の後継者問題
定子は第一皇子となる男子を出産しましたが、その後何度目かのお産の後に亡くなってしまいます。
このころ彰子にはまだ子が授かっていなかったのですが、この定子の子をとても可愛がって手元で育てたと伝えられています。
定子が生んだ男子である敦康親王は、一条天皇に似て優秀で人柄もよかったとされ、一条天皇も才気あふれる敦康親王をとても気に入っていました。
しかし彰子が一条天皇の第二皇子(敦成親王)を出産したことで、事態が変わってきます。
一条天皇にしてみれば愛した定子の忘れ形見であり、優秀な敦康親王を将来の天皇にしたいと考えましたし、中宮である彰子も自分が産んだ子ではないのにも関わらず、敦康親王を推したといわれています。
しかし、彰子の父親であり宮中で絶対的な権力を持つ藤原道長は、彰子の子である敦成親王を天皇の座につけることを諦めません。
一条天皇にしてみれば、政務の面では優秀で信頼している藤原道長ですし、権力を持った道長の意向には逆らえませんでした。
そして一条天皇が崩御すると、第63代冷泉天皇の子である三条天皇が即位し、敦成親王が皇太子に選ばれました。
一条天皇は、性格が温和で優しく人々に慕われ、定子もまた知的で明るい女性だったと伝えられています。
そして彰子もまた、定子の子の敦康親王に愛情を注ぎ、一条天皇の意向を酌んで、敦康親王を即位させようとする、健気で優しい女性だったと思われます。
また、定子には枕草子で有名な清少納言が、そして彰子には紫式部・和泉式部が仕えており、平安女流文学が花開いた時期でもあります。