第65代花山天皇は、即位から退位まで藤原兼家らの謀略に翻弄されたと伝えられています。
ここでは藤原兼家らの謀略と、花山天皇についてご紹介します。
藤原氏の野望に翻弄された花山天皇
花山天皇は、先帝である円融天皇の即位とともに皇太子になり、円融天皇の譲位を受けて17歳で即位しました。
花山天皇には奇行癖があったとも伝えられていますが、四十年という短い生涯の中で、和歌などの芸術面の才能を発揮したともいわれています。
花山天皇の即位期間はわずか二年で、そこには当時摂関家であった藤原家の働きが大きかったとされています。
花山天皇は、摂政であった外祖父伊尹の強い威光で、生後10カ月で皇太子となりましたが、17歳で花山天皇として即位した時には藤原伊尹はすでに亡くなっており、有力な後ろ盾がいない状態でした。
花山天皇が即位した時に皇太子となったのは、右大臣・藤原兼家の孫である懐仁親王でした。
懐仁親王の母(藤原道兼の娘)は藤原詮子といって、初めから花山天皇が即位することを快く思っていませんでした。
先帝の円融天皇の後任には、詮子の子である懐仁親王を即位させ、藤原兼家・兼家親子を摂政にすることを望んでいたのです。
寵愛した女御の死と花山天皇の悲嘆
花山天皇には寵愛した女御がおり、その女性が妊娠中に死亡してしまったことに悲しみに暮れておりました。
花山天皇は悲しみのあまり出家したいと思うのですが、当時の天皇は在位中の出家は認められていませんでした。
そこに藤原兼家・道兼親子、そして藤原詮子がつけ込んだとされています。
花山天皇は歳がまだ若く、藤原詮子の子の懐仁親王に皇位が回ってくるのを待つことができなかったのです。
悲嘆にくれる花山天皇に、当時蔵人だった藤原道兼が「共に出家しよう」と話を持ち掛けました。
そして花山天皇が剃髪して出家したのを見届けた後、道兼は花山天皇を置き去りにして戻ってきてしまいました。
その間に皇太子が即位する際に必要な三種の神器まで持ち帰って、懐仁親王が一条天皇として即位してしまうのです。
これが花山天皇の即位期間がわずか二年だった理由です。
この花山天皇とその周りの人々の出家騒動を寛和の変といい、詮子の弟である藤原道長による藤原家全盛の時代の基礎となるのです。
退位後の花山天皇
花山天皇は即位している間にも女性関係が派手でしたが、法皇となってからも女性関係で様々なもめごとを起こしたと伝えられています。
しかし法皇時代には、紀伊国(現在の和歌山県から三重県南部)の熊野から三十三の観音霊場を巡礼して修行もしました。
これが「西国三十三所巡礼」として継承されるようになり、この際に各霊場で謳った歌がご詠歌と呼ばれ、寺を参拝する人々が仏様を称えて詠う歌になったと伝えられています。