崇神天皇は、初代神武天皇と同一人物だった?

日本書紀の中で神武天皇も崇神天皇も、「初めて国を治めた天皇」という記され方をされいます。

ここでは神武天皇と崇神天皇が同一人物なのではないか、という説に関してご説明します。

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第10代天皇である崇神天皇とは

崇神天皇は、実在性が乏しい欠史八代の最後の天皇である開化天皇の次に即位した天皇です。

そしてこの崇神天皇の時代から、日本書紀に天皇の実績に関する記述が多く記されていくことになるのです。

日本書紀の中で崇神天皇は「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と記されていて、その意味は「国を始めて、治めた王」という意味になります。

崇神天皇は神武天皇が宮をかまえた橿原(かしはら)から東の、纏向(まきむく)で政治を行いました。

同一人物説の根拠となるものは

前述のとおり、二人とも日本書紀の中で国を治めた初めての天皇とされています。

第10代崇神天皇は、民衆に租税を課したり、戸籍のようなものを作ったりという現代につながるような政策を始めました。

また、民衆の間に疫病が流行って、それを治めたという逸話も残っていますが、それは神託による祭祀でした。

神武天皇と崇神天皇同一人物だとすると、2代目から9代目までの天皇の存在はどうなっているのか、の疑問が出てきます。

この間の天皇は欠史八代と呼ばれ実在が疑問視されていますが、それならなぜ系譜や名前が残っているのでしょうか。

初代天皇からの天皇の系譜は存在しますが、その間は支配する領土が狭い地方政権であり、天皇の皇位継承もはっきりと行われなかったのではないかとの説があります。

欠史八代の8人の天皇の寿命が異常に長く記載されているのも、継承の際に空白の時期があったためともいわれています。

天皇の実績に見る別人説

ここで中国の史書を参考にした説をご紹介します。

中国の史書によると、初めて天下を馭(ぎょ)した天皇は、金の印の倭奴国王にあたります。

倭奴国王が卑弥呼だとする説もありますが、卑弥呼が初めて天下を馭したとするには、年代その他の理由で無理があります。

そしてその記述と日本書紀とを読み合わせると、初代神武天皇が天下を馭し、10代崇神天皇が国を肇めたと解釈することができます。

簡単に言うと、神武天皇がまず国を作って、崇神天皇が本格的に国を治め始めたということになります。

まだまだ解明されていない部分が多いですし、様々な説が展開されていますが、古代史の研究というのは少ない資料の中から色々な説を導き出す興味深い学問だといえます。

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